Los años desnudos / ヌード狂時代 [スペイン映画]
来たる9月のLatin Beat Film Festival 09 / ラテンビートフィルムフェスティバル2009 / 第6回スペイン・ラテンアメリカ映画祭で上映される作品なので、細かいことはそれが済んだら書きます。
軽~くストーリー紹介
「トランシシオンtransición(移行)」期のスペインでは映画の検閲は廃止され、銀幕には女の裸が登場する。激しい性描写のある作品は「S」という指定を受けて公開されることとなった。
サンドラ、エバ、リナ―――「S」映画で出逢った女たちそれぞれの人生行路。
昨年(2008年)のラテンビートフィルムフェスティバルのときから候補作品として検討されていたように聞いている。しかし昨年のこの時期はまだPost-productionの段階で間に合わなかったのじゃないかな。晴れて今年のラテンビートで観られることとなりました。
Dunia Ayaso・Felix Sabroso監督作品の前二作(『Perdona, bonita, pero Lucas me queria a mi 』と『チルアウト!』)よりも私はずっとずっとこれが好きだ。観れば観るほど染み入った。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆
いくつか予習メモを
(以下、引用文中の改行やアラビア数字は私が勝手に):
1) 「トランシシオンtransición(移行)」期@wikipedia
・transición: 《スペイン》【史】【政】(フランコが死亡した1975年から新憲法発布の1978年までの民主主義への)移行期.
2) 『スペイン現代史―模索と挑戦の120年』(第10章 スペインの社会変化)より:
……略……スペインは旧態依然の男尊女卑型法規が最近まで残っていた国である。フランコ時代の民法第57条は、夫の許可なく妻が就業することを禁じていた。妻は夫の許可なく雇用契約を結んだり、自営業を自分名義で始めることができなかった。……略……法律上は妻は夫の許可なく一定以上の期間にわたって自宅を留守にすることさえできなかった。
このような女性蔑視の法律が正式に廃止されたのは実にフランコ独裁体制末期の1975年のことである。
南欧社会では、男性が女性を保護する(だが実際は女性を自立した存在として認めず、女性から自由決定権を奪うものであった)法律が存在したが、スペインの場合、このような時代錯誤の法律が20年ほど前まで存続していた点に問題があった。同様の法律をイタリアはその56年前に、フランスは37年前に廃止していたのである。
3) 『スペイン映画史』(第8章 転換期のスペイン映画 1976年~1982年)より:
検閲の全廃と自由の代償
1976年4月ついに検閲は全廃された。表現の自由が認められたのである。……略……11月になってようやく新たな映画に関する政令が発表されるが、それに拠ると、作品の内容によっては観客の年令に従って入場制限があるが、これは検閲と言うには当たらない。
特に、性描写や暴力シーンの激しいものは「S」という指定が為され、特定の映画館でのみ上映されることになった。またポスターにはヌードなどは使用しないよう定められたが、これも青少年への影響を考えてのことで、表現の自由の制限には当たらない。要するに、社会常識の許す範囲内で多少の制限はあるものの、映画の制作に関してはほぼ完全な自由が保証されたのである。……略……
……略…… 時代の風潮とでも言おうか、それこそ必然性もなくやたらとヌードが出てきた。……略……
……略…… 1976年から77年にかけての二年間は、……略……スペイン映画では、それまでの「必然性」のある、しかも節度あるヌードに代わって、ヌードそのものが売り物の映画や「S」指定の作品がもてはやされた。……略……
4) WikipediaのCine españolの項から「El destape」についてなんとなく訳:
※destape: 《話》(映画・ショーなどでの)体の露出;ヌード.
>……略……このジャンルで特に知られた女優としてはマリア・ホセ・カントゥード、ナディウスカ、アガタ・リスやブランカ・エストラダが挙げられるが、80年代に入り、興隆したときと同じくらい急速にこの業界が衰微すると彼女たちの人気も翳った。路線変更に成功した者もいれば消えて行った者もいた
5) あとは参考ということで、こんな番組も:
: ¿Te acuerdas? - 'Transición al desnudo'
・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆
それから音楽についてもメモしておこうと思う。
日頃から、画面にかぶせてくる歌の詞に代弁させるというやり方は私は好きではない、歌詞で理解させる・歌詞で情報や感情を補足するのは横着なやり方だと思ってきたのだけど、本作ではところどころでそれをけっこう素直に味わってしまった。
1."Macho a Real One" (Celi Bee)
この曲でディスコで踊りまくるまでの音の運び方が、私、なんだか気に入っちゃって。何度もそこばっかり巻き戻したわ。
: CELI BEE - Macho a Real Real One ( Un Super Hit Inolvidable )
2."Soul Dracula" (Hot Blood)
: hot blood - soul dracula
3."Yo también necesito amar" (Ana y Johnny)
: Ana & Johnny-Yo También Necesito Amar
歌詞はこちらのブログなどから:
Letras y Lyrics del Recuerdo: Yo también necesito amar de Ana y Johnny
4."Lay Love On You" (Luisa Fernández)
: Luisa Fernandez - Lay love on you
5."Acaríciame" (Susana Estrada)
6."Estoy bailando (Stò ballando)" (Daniela Goggi and Loretta Goggi)
: las hermanas goggi - estoy bailando
7."Aún vivo para el amor" (Fernando Fernán Gómez)
8."Algo de mí" (Amina Annabi)
9."You Are My Sister" (Antony and the Johnsons)
: Antony & the Johnsons on Letterman
: Antony and the Johnsons-You Are My Sister
(コメント欄にメモ)
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・Los años desnudos@IMDb
直訳: 裸の時代
昨年の今頃の仮題はたしか…:Clasificada S
英題: The Naked Years: Classified 'S'
・Los años desnudos 公式
・ヌード狂時代/S指定@映画生活
監督・脚本: Dunia Ayaso ドゥニア・アヤソ Félix Sabroso フェリクス・サブローソ
出演:
Candela Peña カンデラ・ペニャ ... Sandra サンドラ
Goya Toledo ゴヤ・トレド ... Lina リナ
Mar Flores マル・フローレス ... Eva エバ
Luis Zahera ルイス・サエラ ... Ángel アンヘル: プロデューサー
Antonio de la Torre アントニオ・デ・ラ・トーレ ... Marcos マルコス: 監督
Julio Vélez フリオ・ベレス ... Sergio セルヒオ:
Ana Wagener アナ・ワグネル ... Asistenta: お手伝いさん
Posted by: Reine | Monday, July 27, 2009 10:18
1975年スペインの冬、40年の長きにわたって君臨していた独裁者が倒れ、大きな転換期をむかえていた。実際は70年代に入ってから反フランコの胎動が静かに始まっていたから、8月15日、日本国民が玉音放送を聞いた時のような180度方向転換は起きなかった。
映画の背景となる70年代後半から80年代初めの社会情勢については、ブログの説明で充分だし、ラテンビート終了まで内容には踏み込めないから、思いつきの、主に出演者のあれこれをご紹介します。
因みに1976年の我が国はどうだったかと言うと、ロッキード事件で東京地検が前首相田中角栄を逮捕、中国では周恩来死去につづいて毛沢東も鬼籍入り、翌年には日航機がボンベイで日本赤軍によりハイジャック……と、こちらも転換期を迎えていた。
この時代を背景にしたスペイン映画は多くない印象だが、ちゃんと調べたわけではないので、ほんとのところは分からない。ラテンビート映画祭では『色彩の中の人生』(第3回)1作かもしれない。フランコ末期のも、『トレモリーノス73』が第1回で上映されただけだが、全体をみれば結構ある。『キャロルの初恋』(第1回)のように、市民戦争がテーマの映画は枚挙に暇がないが、変化が緩慢で、はっきり目に見えない時代を映像にするのは難しいのかもしれない。そういう観点からすれば、本作は民主主義移行期のスペイン社会のカオスが分かってオベンキョウになる。
ドゥニア・アヤッソ&フェリックス・サブロソ監督作品では、Reineさんと同様『Perdona, bonita…』『チル・アウト!』と本作の3本を見ている。後者にはサンドラ役のカンデラ・ペーニャが主演している。
Posted by: アリ・ババ39 | Sunday, August 30, 2009 21:56
カンデラ・ペーニャ
上述の『トレモリーノス73』でもハビエル・カマラと夫婦役で主演、≪涙ぐましい熱演≫には笑いが抑えきれなかった。ラテンビート公式サイトでは、アルモドバルの『オール・アバウト・マイ・マザー』が紹介されているが、そちらは脇役。しかし、彼女の公開作品で一番有名なのがコレだから仕方ない。
1973年バルセロナ生れ、デビューはイマノル・ウリベ監督の『時間切れの愛』(1994)、2年後に公開された。つまり第1作から日本にお目見えした幸運な女優さん。勿論こちらも脇役だが、演技がくっきりしていて、主役のルス・ガブリエルより印象深かった。『時間切れの愛』主演のカルメロ・ゴメス、ハビエル・バルデム、ペポン・ニエト(『チル・アウト!』にも)と皆んな若かったが、未来のスターを予感させる演技者が揃っていた。
( ウリベ: 『キャロルの初恋』の監督、これにはカルメロ・ゴメスが出ていた。他に日本公開作品では、『電話でアモーレ』(1995、公開1997)がある。)
カンデラ・ペーニャ つづき
主演作品としては、2005年『Princesas』、2008年『El patio de mi carcel』(ともに未公開)。最新作『La isla interior』は、本作と同じ二人の監督がメガホンをとっているが、まだ見ていない。3人のうちでは紹介作品も多く、固定ファンも結構いると思う。ケート・ブランシェットのように、歴史物からドラマ、コメディーまで演じられるカメレオン女優、期待されていい才能ね。
Posted by: アリ・ババ39 | Sunday, August 30, 2009 21:57
リナ役のゴヤ・トレド
1969年カナリア諸島のランサロテ生れ。『アモーレスペロス』の第2話バレリア役があまりに有名だが、1998年東京国際映画祭コンペ正式作品『マラリア』(1998)で紹介されたのが最初。この映画の舞台が火の島ランサロテ島なので起用されたのかもしれないが、主役のマラリアを演じた。
( 監督のアントニオ・ホセ・ベタンコル: 1942年カナリア諸島サンタ・クルス・デ・テネリフェ生れ。テレビ界で活躍していて映画進出は遅いほう。長編第2作「Valentina」(1982)、第3作「Cronica del Alba 1919」(1983)が気に入っていた。本作が4作目と寡作な映像作家、すでに2006年に物故している。)
98年の目玉は、なんといってもアメナバルの第2作『オープン・ユア・アイズ』。
『マラリア』(1998)は少し割を食ったかたちだったが、脚本もよく共演のカルメロ・ゴメスも凄味のある演技で、個人的には収穫だった。ゴヤ・トレドはまだ20代、その美しさ、実現しなかった結婚式の純白のドレス姿が目に焼きついている。
( キューバのアレア監督亡き後、スクリーンから消えていたミルタ・イバラも出演していた。遺作となった『Guantanamera』(1995)が禍して、本国では干されているのかなと勘ぐったことを思い出す。)
ゴヤ・トレド つづき
脇役ではペドロ・オレアの『Mas alla del jardin』(1996)、エンリケ・ウルビスの『La caja 507』(2002)、エミリオ・マルティネス・ラサロの『Las 13 rosas』(2007)に出演している。どれも何かしらのゴヤ賞をゲットした作品。特にアントニオ・レシーネス、ホセ・コロナドがお好きな方、2番目がお薦めです。
ペネロペ・クルスは親友。アルモドバルの最新作『Los abrazos rotos』(カンヌ映画祭コンペ正式出品)の舞台もランサロテ、偶然かもしれないけど。いずれ公開されるときのタイトルは、「壊れた抱擁」か、英語タイトル「Broken embraces」のカタカナ読みか、後者かな。
Posted by: アリ・ババ39 | Sunday, August 30, 2009 21:57
エバ役のマル・フローレス
1969年マドリッド生れ。主にテレビで活躍、3人のなかでは一番馴染みがない。私も本作が初めて、上記の二人に比べると出演本数が少ないのは、最初はモデルとして活躍、女性誌『エル(ELLE)』の90年代ベスト・モデル100人に選ばれている。180センチの長身だから、小柄なカンデラ・ペーニャと並ぶとその高さが実感できる。3人の子持ちとは思えないプロポーションは、バルト9で確認してください。
スペイン映画の重鎮だったフアン・アントニオ・バルデムの『Resultado final』(1998)の主役に抜擢されている。見てない作品だから何とも言えないが、DVDのジャケット写真のフローレスはエロティックでいい。
( バルデムはG・ベルランガとは映画の傾向を異にするが、共にスペイン映画の発展普及に尽くした人。1984年第1回スペイン映画祭に団長として来日、スペイン映画の名作23本一挙上映を可能にした。2002年10月に死去している。横道に逸れるが、監督の伯父さんより有名になったのがハビエル・バルデムね。)
Posted by: アリ・ババ39 | Sunday, August 30, 2009 21:58
マルコス役のアントニオ・デ・ラ・トッレ
1968年マラガ生れ。ラテンビートの公式サイトのキャスト紹介は3人までらしく載っていないが、ついでにご紹介。『ボルベール』でペネロペの夫役、義理の娘に早々と殺されちゃったので顔が思い出せないという方、ダニエル・サンチェス・アレバロの『漆黒のような深い青』(第4回)で刑務所に収監中の兄役をしていた上手い役者。
同監督の最新作『Gordos』では33キロも体重を増やして別人となって登場しますから、普通の体形が見られる最後のチャンスかも。
Posted by: アリ・ババ39 | Sunday, August 30, 2009 21:58
私が昔々から謎だと感じているのが「salir con alguien」の定義です。
クラウン西和
・salir: 【+con と】(異性と)デートする,付き合う,交際する.
例) Salgo con una chica desde hace un mes.
私は1か月前からある女の子と付き合っている.
小学館
・salir: 【con ... …と】(恋人として・親しく)付き合う; 《複数主語で》(互いに)恋人として・親しく)付き合う.
例) Juan y Ana han empezado a ~ juntos. ¿Seguro? Pensaba que Ana salía con Fernando. フアンとアナが付き合い始めたんだ.-それは確かかい.アナはフェルナンドと付き合ってると思ってた.
例) Yo en aquella época salía mucho con mi amiga Gema. あのころ私は友人のヘマと特に親しく行き来していた.
Diccionario De Argot Espanol
・salir con alguien: mantener una relación sentimental.
Maria Moliner
・salir: 19) Frecuentar, por motivos amorosos, el trato de otra persona. Se utiliza con la preposición (cón).
サラマンカ
・salir: 3. Mantener 《una persona》una relación sentimental con [otra]:
例) Mi hermano sale con esta chica desde hace varios meses.
『Los años desnudos』でサンドラ(カンデラ・ペニャ)はディスコで業界の有力者と知り合った。おふざけの流れの中で知り合ったような形。その夜、男の自宅まで連れて行かれ、そのままセックスに至る。
翌朝サンドラは起き抜けに枕元の電話で実家の母に電話をかけてこう言うんだ、「¿A que no sabes con quién estoy saliendo? あたしが誰とsalirしてると思う?」。
「って言っても、あんた、まだ一晩ヤっただけじゃん!」って思っちゃうんだよね、私は。
93年の作品で、カルロス・サウラ監督、フランチェスカ・ネリ、アントニオ・バンデラス共演の『愛よりも非情』というものがあったのだけどね(⇒『Outrage [VHS] [Import]』)
詳しいストーリーは忘れてしまったのだけど、youtubeのこのビデオを観た感じ、
1.マルコスという男が女に一目惚れ
2.取材を通して親しくなる
3.夜二人で出かける
4.ダンスしたりしてますます接近
5.キスする
6.セックスする
7.翌朝には仕事で街を離れる
で、その夜だか次の朝だかにマルコスが戻ってきた時には女は事件に巻き込まれており、一大事であり、大騒動になっており、男は現場に急行するようだ。
そこで警察に事情を説明するのに彼が言うんだよ、「Es la chica con la que salgo. あれは僕がsalirしている子なんです」。
たしかこうだったと思う。観たのはもう10年以上前のことなので自信はないけど。
「って、あんた、まだ一晩ヤっただけじゃん!」って思ったのを覚えている。
このね、“salir con alguien”の語義だけどね、なんなの? スペイン人ってどういうつもりで使ってんの?
映画だからいちいち<つきあっている><親しく行き来している>過程を描写するのに時間を割いてはいられないわけで、だから“ヤって”からまだ24時間経つか経たないかのうちに登場人物に「salir con」と言わせなければならないのかもしれないけど。
実際どうなの? スペイン語人はいつどういうつもりで「salir con」って使うの? こんな、映画みたいな、昨日の今日でsalir conって言っちゃうもんなの?
Posted by: Reine | Sunday, October 04, 2009 22:52
あとは…「セルヒオ」についてかなあ。
ストーリーに触れますから。
↓↓↓
1. 冒頭、エバは村を出て都会へ向かう。ヒッチハイクで行こうとしている。そこへ車がやってくる。セルヒオである。「マドリードまで送る。途中にホテルがあるから、そこで一休みして、き・ち・ん・と・お別れをしよう」などと言っている。
(⇒エバは「セルヒオ」と話しかけているが字幕は「兄さん」と出る)
2. エバとリナが金持ちのボンボンの家に行く。エバがソファで寝ているとセルヒオがエバに触ろうと近づいてくる。エバはハッと気づいて突き飛ばす。「セルヒオ!」と叫んだよね。
(⇒そこでも字幕は「兄さん」)。
「兄さん」であることをあのような早いタイミングで字幕で示してしまうことが果たしてよかったのかどうかが、観た後の廊下での立ち話で話題になった。
私などはちゃんと観るまではずっと“腐れ縁のオトコ”だと思っていたくらいで、現にこの記事の上のほうのキャストの欄にもそのように書いていた。
(昼休み終わるのでつづきは後ほど)(この書き込みも修正するかも)
Posted by: Reine | Monday, October 05, 2009 12:59
映画の冒頭・前半での上述の二場面で我々は、セルヒオがエバに対して支配的な立場だっただろうこと、おそらくacoso sexual(セクシャルハラスメント)があっただろうこと、そしてエバはそれから逃げるためにもマドリードに出て来たのだろうことを察知するわけですよね。
そこから長い間セルヒオは画面に登場しない。
映画後半、エバが幸せを掴んだところへ招かれざるセルヒオがやってくる。
(⇒ そのくだりでも「兄さん」でしたか? 記憶が曖昧)
その時セルヒオは妻に追い出されて子供の顔を見せてももらえないと愚痴り始める。
このセリフを聞いて観客たる私はまず「んぁ? なに? この男は既婚者だったのね」と思ったのだった。「え? じゃぁ何? エバは村にいた頃に既婚者のセルヒオと不倫関係に陥ってそこから逃げ出してきたってわけ?」「むむむ?なんだか二人の関係がわかんなくなってきたぞ」と思ったのでした。
エバはお金で厄介払いできるならしようという態度を見せる、セルヒオはエバに性的な感じで強引に迫ってくる、エバの夫が飛び出してきてセルヒオをぶん殴る、そしてエバがセルヒオをボッコボコにする。「あんたを殺してやる」とまで言う。
夫がエバにあれは誰かと尋ねる。エバがその時に「Mi hermano. 兄よ」と答える。
ここに至るまで「セルヒオ=兄」というのは何かしら答えが出てましたか? 出てなかったと思うんだよね。
セルヒオが兄であると観客が理解するのは、映画終盤とも言えるこの時点だったと思う。そして観客はここで愕然とする仕掛けになっていたのではないの?
映画冒頭でエバをホテルに誘っていたことの重さ、エバが金持ちのボンボンの家でうたた寝している時にみた悪夢の意味、エバのこれまでの数々の言動の理由<わけ>、それらが一気に氷解するのがこのシーンではないの?
セルヒオのエバに対するacoso sexualはabuso sexual(性的虐待)だったのだと、しかもabuso sexual incestuoso(近親者によるもの)だったのだと知るのがこのシーンでしょう?
エバの苦痛をより大きく受け止めるためには、やはりここで兄と知りたかった。冒頭から親切に「兄さん」と教えてくれなくてよかった。ここまでずっと「セルヒオ」で引っ張ってきて欲しかった。
Posted by: Reine | Tuesday, October 06, 2009 09:31
正直、私なんぞ、「あれは兄よ」というエバのセリフを聞いてもなお「これはその場しのぎのエバの嘘だろう。兄ではないのだろう」と思ったりもしていた。あるいは、エバにお姉さんがいて、セルヒオはその配偶者なのではないかと考えたという知人もいた。
(けど、この後のシーンでエバが語る身の上話などを合わせて考えてみて、やっぱり本当に「実兄」なのだろうと思う)
さて……
通訳や字幕に対して誤訳だなんだと騒ぎたがる人はいっぱいいると思う。鬼の首をとったようにそういうことをあちこちであげつらって指摘してまわる気質の人。
いい歳をした、偉い(あるいは偉そうな)センセイの中にもそういう人がいるようで、私はそういう偉い(あるいは偉そうな)人が「あれは誤訳ですぞ」と言っているとかいないとかを小耳に挟むたびに、そんな人間性の持ち主たるセンセイに教わる生徒が可哀想だなあと思うわけである。
「誤訳ですぞ」だのなんだのと外野からキャンキャンと得意気に腐す、それが教育者・研究者としての貴女の姿勢なのかと問いただしたくなるようなセンセイっているものだね。
字幕などの訳し方についてとやかく言うという行為はそういう人種とおんなじことをしているようでイヤになるので、できればしたくないのだけども、この“兄問題”のような、作品の受け止め方の太いところに関わってきてしまうことについては、どうしても書きたかった。
あれはやっぱり冒頭から「兄」と知らせてくれなくてよかった。
Posted by: Reine | Tuesday, October 06, 2009 09:41