Cama adentro / Señora Beba [アルゼンチン映画]
2001年、アルゼンチン。
ベバはずっと裕福な暮らしを送ってきた。美容クリームの会社を興して羽振り良くやっていたが、国の経済が破綻した今、彼女も家計は火の車である。母の遺産も別れた夫と自分とでそれぞれ事業につぎ込んでしまった。
ベバはドーラという住み込みの女中をかれこれ30年置いているが、もう何か月も給料の支払いが滞っている。ドーラは、景気のいいことを並べるばかりで実際には立て替えておいた洗剤の代金すら払ってくれない雇い主に業を煮やしている。それでなくとも、何歳になっても傲慢で我儘なお嬢さん気質のベバにはたびたび神経を逆なでされているのだ。
ベバはどれほど切羽詰まったとしても今のマンションを出て倹約生活を送ることなど考えたくはない。こんな無駄に広いマンションに住んでみたところで、スペインに行ってしまった娘ギジェルミナはいつ戻るとも知れないのに。ギジェルミナは電話すらかけてくれないのだ……ベバには。
一方ドーラは片田舎に小さな粗末な家を買った。週末だけそこに帰り、ミゲルという男と過ごす。早くベバから給料を受け取って、家作りを仕上げてしまいたい。ベバへの忍耐が切れたドーラはいよいよやめる決意を固める。
ドーラに辞めてもらいたくないベバは機嫌を取るが……。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆
こないだ9月のスペイン・ラテンアメリカ映画祭の『Encarnacion / 化身』と印象は似ているかもしれない。悲しさと寂しさ、特に女性の抱える心細さが迫ってくるものの、飲み干したあとの清涼感は心地よいという。
あと、『El Abuelo / The Grandfather』のドン・ロドリゴ・デ・アリスタ・ポテスタッド(フェルナンド・フェルナン・ゴメス)とドン・ピオ・コロナード(ラファエル・アロンソ)の主従関係を見守ったときの気持にも似ていた。これはあまり同意を得られないかもしれないけど。
(つづきはコメント欄で)
・Cama adentro@IMDb
直訳: 住み込み
英題: Live-In Maid
※もう一つのタイトルは『Señora Beba (ベバさん,ベバ夫人)』
監督・脚本: Jorge Gaggero
出演:
Norma Aleandro ノルマ・アレアンドロ ... Beba Pujol ベバ・プホル
Norma Argentina ノルマ・アルヘンティーナ ... Dora ドーラ
Marcos Mundstock ... Víctor ビクトル: ベバの別れた夫
Raul Panguinao ... Miguel ミゲル: ドーラの愛人
Eduardo Rodriguez ... Luisito ルイシート: ベバのマンションの守衛
Monica Gonzaga ... Irma イルマ: ベバの行きつけの美容院
Susana Lanteri ... Memé: ともだち
Elsa Berenguer ... Sara: ともだち
Claudia Lapacó ... Perla: ともだち(たぶん)
The comments to this entry are closed.
Comments
作品は2004年、各国での公開は2004~2005年の間。でも舞台は2001年。
2001年のアルゼンチンといえば、ベバのみならずみんなが苦しかったでしょう。ベバの元夫も、ドーラも、ドーラの情夫ミゲルも。
・ジェトロのビジネス情報 - 国・地域別情報 - 中南米 - アルゼンチン - 経済動向
98年後半にリセッションに入ったアルゼンチン経済は、過去に例をみない長期後退が続いている。……略……原因の第1は財政赤字問題である。財政赤字は国債発行により埋め合わせられたが、1,320億ドルの公的債務が信用不安を起こし、これが金利の上昇を招いていた。……略……競争力問題の解決策として縮小均衡を目指したが、これが景気を低迷させ、税収の減少を招き、財政赤字問題の深刻化につながる悪循環を形成した。この間、デフレが進んだため、インフレ率も99年が1.2%減、2000年が0.7%減だった。……略……2002年5月の失業率は21.5%と過去最悪の水準に達したが
・(PDF)アルゼンチン経済危機とIMF―カレンシーボード制の功罪―
(※いや、私、こういうの読んでもよくわからないんだけどね)
(※ていうか、読めないんだけどね)
2001 年に始まるアメリカおよび世界経済の景気後退のなかで,アルゼンチン危機は深刻な局面を迎えた.1999 年からは4 年連続マイナス成長となり,経済競争力の低下,財政赤字の拡大,金融システム脆弱性の表面化のなか,2001 年末には対外債務不履行,銀行預金の凍結に追い込まれた.首都は街頭抗議行動や騒乱・略奪で荒れ,アルゼンチンの経済・社会・政治危機は深刻化した
・2004/07/30 10:21 【共同通信】
IMF、対応誤りを認める アルゼンチン危機で報告書
Posted by: Reine | Saturday, December 27, 2008 21:35
『Encarnación』では、女優としてそして女としての華々しく溌剌とした美貌や生命力を徐々に失って、業界のみならず日々の生活そのものにおいても疎外感をおぼえて、孤独感・喪失感・焦燥感に苛まれる中年女性の姿が描かれていたかと思う。
さて、『Señora Beba』のベバ夫人はというと、彼女はおそらく一代前あるいはそれ以上前の世代から裕福な社会階層に属してきたでしょう。そして今、そういう暮らしを、そういう暮らしのできる身分を喪失しかけて困惑している。
ドーラが住み込みのメイドとしてベバの家で雇われたのは約30年前、正確にはたしか28年前と言っていた。映画の中の‘現在’は2001年。そこからマイナス28年と言えば1973年のことである。つまりベバは70年代、80年代……という、アルゼンチンの苛酷な時代にも住み込みのメイドを置けるだけの生活レベルを保っていたわけでしょう?
ふと思い出したのは『Machuca』で、チリが激動の時代に突入したというのに、ゴンサロ少年の家では高級服に身を包んだ美しい母がお友達とテラスでお三時のお茶を楽しんでいたシーン。あの母親はずいぶん物質主義な人だった。
16歳と11歳の二児の母とも思えない美しさを保っている。奥様連中といっしょにいても一際目立つ美貌とセンス。爪を整え、髪をセットし、おしゃれ最先端の服を仕立て、海外出張へ旅立つ夫に靴をねだり。
ベバ夫人もきっとそのタイプだったと思う。
下層のドーラをあからさまに馬鹿にすることもある。「高校を出てない貴女でもこれくらいのことならわかるでしょ?」などと言ってみたり、ドーラの心の古傷を抉ってみたり、ドーラの女性としてのささやかな誇りすら土砂降りの雨でボロボロにしてしまったり。
しかし2001年の経済破綻はベバをも圧迫する。ベバはお金が無いという状態に初めて直面しているだろう。おそらく生まれて初めて。
それでも彼女は生活レベルを下げることができない。同じく物質主義的な人たちだけとつきあってきたから。そんな「ともだち」しかいなかったから。その「ともだち」には「Estoy mal, estoy muy sola, estoy mal. つらいの、独りぼっちなの、私つらいのよ」と打ち明けることができない。
Posted by: Reine | Sunday, December 28, 2008 21:19
語句メモ
・タイトルの「cama adentro」についてはSistemas de Protección Socialという本の中にこんな記述があった:
↓↓↓
las empleadas domésticas "con cama adentro" (que residen en la casa del empleador)
※どこかの辞書(紙かオンラインか)でも見かけたことがあったつもりでいたんだけど、今思い出せない。
・「Quédese con el vuelto. お釣りはけっこうよ」(※これ、日常でよく使うから覚えといて。代金を渡しながら「Quédese.」だけでもいいから)
・Por ahí andará.
andar: 5. intr. haber (= hallarse, existir).
例) Andan muchos locos sueltos por la calle.
・noticiero, ra: 2. m. y f. Persona que da noticias por oficio
・mucamo, ma: 1. m. y f. Arg., Bol., Chile, Cuba, Par. y Ur. criado (= persona empleada en el servicio doméstico)
・fango: 1. m. Lodo glutinoso que se forma generalmente con los sedimentos térreos en los sitios donde hay agua detenida.
・changa: 3. f. Arg. y Ur. Ocupación transitoria, por lo común en tareas menores
・洗剤が切れたから買いに行かないと(掃除ができない)と言っていたのは、ちょっとグリップの形状なんかが違うような気もするけど容器のフォルムからみてMr. Musculoじゃないかと思ったのだけど。
・美容院でドーラの髪型を相談している。ソフィア王妃みたいのはどう? と言っているが、Doraが「これ」といったのはIvana Trump (ドナルド・トランプの元妻)
Posted by: Reine | Sunday, December 28, 2008 21:38
これ、この映画の‘現在’よりも後のことなんだけど:
・:: :: 在亜日本商工会議所 :: :::
(PDF)【6】所得格差と貧困問題
・21世紀の潮流 ラテンアメリカの挑戦
世界最悪の「格差社会」、ラテンアメリカで今、新たな挑戦が始まっている。「平等な社会」を目指そうとする左派政権が、ブラジル、アルゼンチン、チリ、ベネズエラ、ボリビアで相次いで誕生したのである。
・日本貿易振興機構 アジア経済研究所
(PDF) アルゼンチンにおける都市の貧困と社会扶助政策
Posted by: Reine | Sunday, December 28, 2008 22:34
ちょっとストーリーにふれちゃうよ
↓↓↓
娘のギジェルミナがスペインに行ってしまってから、ベバはなかなか電話でしゃべれない。かかってこないのだ。
しかしベバが外出していてドーラのいる時間帯にはギジェルミナから電話が入る。「あの子はいつもあなたにはしゃべるのね」とベバは悲しいような妬ましいような素振りを見せる。
ギジェルミナはたしかレズビアンという設定だったかと思う。(「あの子は結婚などせんよ、少なくとも男とは」というセリフがあった)
彼女がスペインに渡ったのが、経済的なものでなくてそういう境遇・状況に因るものなのかどうかは、ちょっとよくわからなかった。アルゼンチンの2001年頃の同性愛事情は私はよくわからないのでね。
wikipediaだけどたとえば同性間結婚についてはアルゼンチンではBuenos Aires、Villa Carlos Paz、 provincia de Río Negroの三都市では認められている、とある。2007年10月の新聞記事で同性結婚合法化へ向けて民法改正案というのがある。
何も「同性婚が合法化されていないのは、イコール同性愛がマージナライズされている社会」というわけでもないと思うので、これらを見ただけでは、アルゼンチンの同性愛者をとりまく事情が厳しいのかそんなでもないのかは、正直よくわからない。
ちなみに、このあいだ9月のラテンアメリカ映画祭の『頭のない女』ではレズビアンの姪っ子というのが登場し、上映後の監督質疑応答の際、「保守的な社会においては、そういう子は家族の中でも疎外される存在なのである」というようなことが語られたようである。
当時のアリ・ババ39さんのコメント中にもこのようにある:
ティーチインのとき、「ベロニカのレスビアンの姪は、恥ずべき存在、社会から隠さねばならぬ存在として登場させた」という解説がありました。
Posted by: Reine | Monday, December 29, 2008 10:54
ストーリーにふれるよ
↓↓↓
上の方で書いたけれども、あんな「ともだち」しかいないから、ベバは誰にも弱みを見せられない。だからベバは一人で涙をこぼしたときも、誰かに見られはしなかったかと辺りを見回す。
ベバがすっからかんになったと知ろうものなら、きっと「ともだち」は遠ざかっていくだろう。それがベバにはよくわかっている。(ということはベバ自身もこれまで他人をそのように切り捨てたりしてきたのではないのかな)
それとおそらく育ちの良さが故にベバはとり澄ました仕草を崩せないのだと思う。どんな状況でも優雅に振る舞わずにはいられない姿が微笑・苦笑を誘う。
Posted by: Reine | Monday, December 29, 2008 11:09
エンディングの曲は、Café Tacubaの『Como te Extraño』。(80年代っぽい邦題をつけると「こんなにアイ・ミス・ユー」。うわ)
君のことがこんなに懐かしいなんて
君がいないと人生はからっぽ
どんなに君を想っていることか
どうすることもできない
君のことを思い過ぎて気が変になりそうだ
きっと君は来ない(※どっかで聞いたような…)
でも大好きな君
僕は待つしかないんだよ
行き着くところはそれなのさ
いつかきっと君に出逢える
お願いだよ
早く戻ってきてくれなきゃダメだよ
Posted by: Reine | Monday, December 29, 2008 11:16
sheepokino.exblog.jp/8989989/(御にあ市~Kinoさん)のブログにもこの作品の感想があります。おおむね同意ですが、ちょっと私の理解と違う箇所があるようです。
以下、ストーリーにふれてしまうので、あちらへのコメント投稿ではなくこちらでのコメントにします。
↓↓↓
1) >レストランに行っても、「モヤシ」しか注文できない
↑
のではないでしょう。あのモヤシはそうではないと思います。
あの時ベバはもうなりふりかまわず飛び込みのセールスをしています。美容クリームを必死で売り歩いている。中国レストランの中国系の店員(オーナーの妻かなにかだろう)に、「それで…買っていただけるのかしら?」とおずおずベバが尋ねると、女が「お金はダメだけど食事ならいいわよ」と答える。
ベバはその交換条件を飲んだのです。飛び込み、言ってみれば「押し売り」にまで落ちぶれたこと一つとっても屈辱的だったろうに、おそらく空腹のせいで‘現物払い’を選んだのは、つまりは「恵んでもらった、ほどこされた」ようなものだから、裕福だった彼女にはあまりにもつらかった。
その情けなさ・心細さに思わず涙がこぼれたのだと、私は観ました。
2) >Doraは「(非常食として)それは、あなたのだから」というところ
>「旦那さんにも、食べてもらうといいわ。」とDoraに渡す。
↑
たしかに、ドーラが作って持って行ってあげたベバの誕生日用のケーキをベバは切ります。切り分けて、「これはミゲル(旦那さん)の分ね」と言います。
しかし、その前の一コマでベバがケーキにナイフを入れようとするのをドーラが制止したのは、「非常食としてとっておいてください」という意味ではなかったと思います。
ドーラはあのとき「切らないでください、お友達とお祝いをされるときのためにとっておいてください」と言ったのです。それに対してベバが「ともだちですって?」と言いながらサッサとケーキを切ってしまうのです。ここの二人のやりとりはこの映画の要だと私は思っています。
ベバがトランプ仲間のことをともだちなどではなかったとはっきり悟っているということ(、そしてまたベバにとってはドーラこそが本当のそしてただ一人の友人であるということ)を、あそこで我々観客は確認するのです。
Posted by: Reine | Monday, December 29, 2008 12:33