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Sunday, September 14, 2008

La mujer sin cabeza / 頭のない女 [アルゼンチン映画]

LBFF第5回スペインラテンアメリカ映画祭の作品紹介より:
アルゼンチン北部の町サルタで、歯科医として、裕福な家庭の主婦として何不自由なく暮らすベロニカは、ある日一瞬のわき見運転で何かを轢いてしまう。怯えて逃げた彼女を夫や親族は庇い、全てを無かったことにしようとするが、「誰かを殺したかもしれない」という強烈なトラウマは根深く残り、息苦しい閉塞感が彼女を襲う。

カメラは、魂の剥がれたベロニカを映し、保守的な富裕層の人々を追い、その背景にぼんやりと通り過ぎる多くの混血の貧者をも捉える。「見ないようにすれば怖いものは去っていく」・・・老女の寝言は本作を読み解く鍵となるかもしれない。end

(近日清書)

・私は映画を観て気に入らないってことは、かなーり稀。たいていは気に入って褒めて終わってる。

・けど、これは気に入らないね。

・いらいらするわ

・起承転結の「承」に入ったのだなと感じたところがあったんだけど、「ってことは、これまでのが『起』だったわけかよ、それじゃぁ『起』が長すぎdespair」と思った

・プロデューサーの質疑応答を聞いて、ようやくいい印象も湧きはじめたけれども

・質疑応答で、「結局やったのかやってないのか」と聞くのは愚かしいというか無駄というか、だ。それはたとえば『Historias del Kronen』で、ラスト、あれはどっちの人だったの?と製作陣にたずねるようなもの。あるいはたとえば、『疑惑』の鬼塚球磨子(桃井かおり)の笑みの意味は?とたずねるようなものだ。


(つづきはコメント欄で)(コメント欄をぜひ)
(この作品に限らず、このブログでは大事なことはコメント欄にあります)


La mujer sin cabeza@IMDb

監督: Lucrecia Martel ルクレシア・マルテル
脚本: Lucrecia Martel

出演:
María Onetto マリア・オネット ... Verónica ベロニカ,ベロ
Claudia Cantero クラウディア・カンテロ ... Josefina ホセフィナ (妹だっけ?)
César Bordón セサル・ボルドン ... Marcos マルコス (夫だったかな)
Daniel Genoud ... Juan Manuel フアン・マヌエル (従兄とか言ってた?)
Guillermo Arengo ギジェルモ・アレンゴ... Marcelo マルセロ (だれ? 妹の夫?)
Inés Efron イネス・エフロン ... Candita カンディータ (姪?)
María Vaner マリア・バネル ... Tía Lala ララ伯母さん

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Comments

映画祭
Festival de Cannes

製作/配給  
Aquafilms

Posted by: Reine | Sunday, September 14, 2008 at 17:39

この映画を鑑賞するステップ

1. 素で観て、なんだかイライラして眠かった(↑本記事)

2. 上映後のプロデューサー質疑応答を聞くうちに、「あぁ、なるふぉど、そういう風に見るべきだったのか」と少し頭の扉が開く

3. 家に帰って、ラテンビートのサイトで『頭のない女』のあらすじを読み、またいっそう扉が開く

4. 数日後、アリババ39さんの解釈をうかがってるうちにいろんなことが腑に落ちる。アリババ39さんは「これは、だって、あくまでも私の感想なのよ」とおっしゃるけれども、私には一つ一つがスコンスコン腑に落ちたのです。

(⇒ アリババ39さんがいつかここにコメントくださることを心待ちにしております)


5. たとえば過去にこのブログで『School of the Americasについて書いたことがある。また、『El mismo amor, la misma lluvia』という美しく温かいラブストーリーについても書きました。去年の映画祭の『マチュカ』なんかでも、鑑賞のための準備としてだらだらと書きました。そして、今日このあと今夜観てきたばかりの『トニー・マネロ』について書きましょう。

アルゼンチン(に限らず中南米の国々)にはこんな感じの↑時代・歴史が在ったのだもんなあというのを踏まえて、それでは『頭のない女』に描かれている人々はいったいどういう現実を生き抜いてきて、どんな社会に生きていて、どんな記憶を抱えていて、どんなメンタリティーを有していて、どんなトラウマに苛まれているのか……などなど、そんなことを思いながら観れば、きっとこの作品はよくわかります。

私は2度観ればよかった。映画を観るまえに「あらすじ」などを排除しようといつも努めるのだけど、それが今回はアダとなったかもしれない。

Posted by: Reine | Wednesday, September 17, 2008 at 23:34

時代背景が把握できないと、伏線、メタフォラ満載の作品は退屈です。反対に取っ掛かりが見つかると謎解きの楽しみが・・・今年のラテンビートの感想は、評判がイマイチの本作品から入りましょう。頭のないアリ・ババですので、すこし引出しを整理して後日に。

Posted by: アリ・ババ39 | Thursday, September 18, 2008 at 10:45

プロデューサーの質疑応答(ネタバレ的なので要注意):
(※ああいう舞台での通訳は普段の力を発揮できずに終わることもあるだろうとは思う。それはよくわかる。でもそれをさっぴいたとしてもこの日のこの回の通訳氏は明らかに能力が足りていなかった。

プロデューサーはプロデューサーで、とても精確には訳してもらえないと見越してか英語で話し始め、すると客席(の、おそらくスペイン語母語の人)からは「スペイン語でしゃべっていただけませんか」と声が飛び、するとプロデューサーも「だって、この人が訳せないみたいだから」と返し……

上映終了直後、ただでさえ「なんじゃこりゃ? sadwobblydespairthink」な空気がうっすらと漂っていたところへそのやりとりがあったので、会場はいっそう冷えたと思います。)


私も萎えて、この時はメモをほとんどとっていない。それでもなんとか作り上げてみようかと思う。(←「作る」のかっ) 本当はメモの順番どおりに書きだして行きたいのだけど、そうすると混沌としてくるから、ある程度順序を前後させてここで整えて書いてしまう。


・本作の主人公ベロニカは一瞬のミスで事故を起こしたのだが、自分が轢いたのが犬だったのか人だったのかで悩み苦しむ。問題の日の自分の行動を辿ろうとしようにも、行く先々で痕跡が確認できなくなっている。まるで何事もなかったかのように。

・彼女の罪の意識と、周囲の人間のとった行動に注目すべし。

・ベロニカの一家は、北アルゼンチンの、信仰心の篤い、社会的には申し分のない、保守的な層に属する。


・お話の時代設定は現代性を前面に出してはいるが、衣装や内装などは実はatemporalである。また、お話は70~90年代と考えてくれてもいい(←んだっけか? なんだったかな。なんて言ってた? なんか言ってたんだけど、メモが読めない。メモやる気なさすぎ。 by Reine)

・かの軍政時代にはアルゼンチン社会の人々はみな「頭がなかった」。あの時代には誰もが世の中の出来事を見ないようにしていた。本作は独裁時代を直接的に描いた作品ではないけれども、そういう実態を表現しようとしている。(←だかなんだか。これは私が勝手に解釈して、捏造してるかもしれない。 by Reine)

・「No hay cuerpo, no hay crimen. (死体がないなら、事件もそもそもなかった)」が横行していた時代であったということを思い出してほしい。

・姪っ子は男勝りにバイクを乗り回すレズビアンであるが、レズビアン性はルクレシア・マルテル監督の作品ではこれまでにも取り上げられたテーマである。保守的な社会においては、そういう子は家族の中でも疎外される存在なのである。


・ルクレシア・マルテル監督の視点は独特で、ストーリーの見せ方もまた独特なので、難解だなどと言われることも珍しくはない。プロットを見失うオーディエンスも少なくない。

・本作はルクレシア・マルテル監督の三部作の〆というべき作品。彼女の映画はある意味過激な作風なので、大好きという人と大嫌いという人と、くっきり二つに分かれる。世界的にもよく知られた監督で、前2作も多くの国々で一般公開された。日本ではあいにく、『La Ciénaga』(= The Swamp)がNHKで放映されたことがあるのみである(←未確認。そうなのですか? 私のメモの間違いかもしれない。 by Reine)


karaoke この質疑応答から感じられたこと:
彼女が人を轢いたか轢いてないかはこの際関係ない。それはとりあえずどうでもいい。轢いていようがいまいが、彼女を‘愛する’家族親戚一同が先回りして証拠隠滅をはかってくれたということがポイント。

そして、こうやって書いて頭の中でまとまってくると、いい作品であったと思い始めるものであるな、と。

Posted by: Reine | Monday, September 22, 2008 at 13:41

語句メモ
・machonear: (pop.) Comportarse una mujer como varón.

・zangolotear: どの意味で出てきたかは忘れた
1. tr. coloq. Mover continua y violentamente algo. U. t. c. prnl.
2. intr. coloq. Dicho de una persona: Moverse de una parte a otra sin concierto ni propósito.
3. prnl. coloq. Dicho de ciertas cosas, como una ventana, una herradura, etc.: Moverse por estar flojas o mal encajadas.

Posted by: Reine | Tuesday, September 23, 2008 at 13:49

 いやはや参りましたね。「えっ、これで終わりなの?」とキツネにつままれた観客が多かったかしら。1回目上映後のQ&Aで少し納得したという声を何人かから伺いました。私は2回目を見ただけなので、ブログのコメントを読んで雰囲気を想像するだけですが。こういう混乱にはしばしば出くわしますよ。ダニエル・ブルマンが初めて『エスペランド・アル・メシアス』(東京国際映画祭2000)を携えて来たときはもっと酷かったんですよ。通訳者の質向上は尤もですが、スペイン語映画に限らず、映画全般に詳しいボランティアを探すのは難しい。詳しくてペラペラでもうまくいかない。やはりそれなりのテクニックがあるんじゃないかな。字が読めても小説書けないのと同じ? 通訳者がアマなんだから、質問者も内容をコンパクトに纏め、仕事しやすいようにする努力が必要です。質問内容が明確じゃないことも問題。それに日本語できるのにスペイン語で質問する人いますけど、他の観客は分からないのだし、通訳者を信用しないとも取れますから失礼では? 勿論日本語分からない外国人は別です。

 なるほどそれも一理あるかな。いらいらする質問もありましたね。映画に話を戻すと、1回目は全然分からなくて、説明聞いてもう一度見た人います。背景に1970年代後半の軍事独裁政権が潜んでいると分かると、謎が解けて俄然画面が動き出したそうです。でも説明聞かなきゃ分からない映画じゃ、どうなんだろう。映画館で観るのは1回がフツーでしょ。時代背景をすぐ分かった人は、事前に調べたとか、この時代に詳しいとか、日本じゃごく少数派ですよ。
 日本どころか本国のアルゼンチンでも「なんだこれは」だったでしょう。まだ歴史になってないし、観客の3分の1は、生まれてもない。これはカンヌ映画祭にアルゼンチン代表作品として出品され、正式コンペに残った。漏れ聞くところによると、カンヌでもブーイングの洗礼を受けたらしい。やはり説明を聞かないと分からなかったんです。私はもう一つのコンペ作品“Leonera”のパブロ・トラペロ監督との合同記者会見をネットで見ました。

 じゃ、お膝元のアルゼンチンはどうだったんです?
 封切りは8月21日、やはり毀誉褒貶半々ってところ。批評家やマルテル監督のシンパは「まさにマルテル的」「マルテルは、静かな揺さぶりをかけて私たちの無関心に挑戦してきた」、片や「死ぬほど退屈」「良かったのは、ベロニカ役のオネットだけ」さらに「こういう作品に資金援助してカンヌに持っていった文化省の気がしれない」という極論まである。まだたかだか30年前のことですから、体制側の軍人・政治家、その家族を含めた関係者は生きています。だから、これは想定内の反応です。

 頭を整理したいので、まずルクレシア・マルテルという監督について簡単に紹介してください。
 1966年12月14日、北アルゼンチンのサルタ州生まれだから、40歳をちょっと超えてる。一応、短編やTVを除くと、長編第1作が『沼地という名の町』(La Cienaga 2001)、2作目『ラ・ニーニャ・サンタ』(La nina santa 2004)、3作目がこれです。舞台がすべて監督の出身地サルタなので、サルタ三部作とも。1作目がNHKが資金提供しているサンダンス映画祭で認められ、1度だけNHKのBSで深夜に放映された。ハバナ映画祭珊瑚賞、ベルリン映画祭出品と幸運に恵まれた。2作目がまだラテンビートの名称じゃなかった、第1回スペイン・ラテンアメリカ映画祭で上映された。いま思うと良い作品が目白押しだったのに、宣伝・準備不足で認知度が低くガラガラの会場、ティーチインに来日してくれたゲストが気の毒だった。3作ともどういう形であれ日本に届けられたのは、幸運としか言いようがないです。

 ぼんやりとだが、アウトラインが見えてきたところで、本題に入りませんか。ベロニカはわき見運転で何かを轢いてしまった、犬かもしれないし人間かもしれない。
 本人は恐怖で振り向けないので分からないが、観客は轢死した「イヌ」を目にするから、少なくとも轢き逃げじゃないことを知る。目撃者は観客だけ、ここがこの映画の面白いとこね。つまり何を轢いたか、何も轢かなかったのかは、映画のテーマじゃないと言ってるわけだから。「知らないうちに犯したかもしれない罪があるならば、仮に証拠や目撃者がいなくとも責任をとって、救済されたい」。罪の不確実性→責任→贖罪、これがテーマでしょうね。

 そこにバックとして1970年代の軍事独裁政の記憶が、ベロニカのトラウマとなって重なり、一族を巻き込んでいくのですね。具体的に何が起こったんでしょう。
 あなたがいま口にした「記憶」が、また一つのキーポイントです。では、政治談議じゃないから、映画の手助けだけに限ると、1976年3月24日、ビデラ将軍による軍事クーデタが勃発、29日に大統領に就任してから1983年10月、4人目のビニョーネ将軍が退陣するまでの約7年間に、3万人の反体制者が逮捕監禁、拉致暗殺、拷問の末の獄死などで抹殺されました。殆どが最初のビデラの時代に犠牲になったと言われています。いわゆる「行方不明者」とされて、闇に葬られたわけです。労働者、組合関係者、学生、反体制政治家、ジャーナリスト、主婦・・さまざまの階層に亘っています。五月広場の母親たち、いまや古典入りしたプエンソの『オフィシャル・ストーリー』、数々の映画が撮られ、本が書かれていますから、ああ、あれね、という人多いでしょ。

 それらの映画は、それとすぐ分かりますが、マルテルの映画は切り口が・・・
 問題提起の手法が違うということね。好き嫌いの分かれ目がそこら辺にあるかな。Reineさんの「死体がないなら、事件はなかった」は、とても重要です。この時代の流行語は証拠隠滅です。「行方不明で証拠(死体)がないんだから、暗殺されたわけではない(事件はなかった)」。ここで ‘crimen’ が使われている。これはただの事件では使用しない単語です。

 夫のマルコスや従兄のフアン・マヌエルが証拠隠滅に駆けずり回りますね。頭のレントゲン写真を病院から持ち出したり、ベロニカが事件の日に宿泊したホテルの記録を改竄したり。ベロニカが「もしかしたら」と疑い始めるまわりの動きが面白い。ベロニカを助けるというより、自分たちに自分たちの家庭や階級に、累が及ぶのを恐れたのですね。
 そう、ベロニカの恐怖が伝染していく、彼らも同じように「罪を犯していたかもしれない」というトラウマを抱えているわけですから。(ちょっと休憩) 

Posted by: アリ・ババ39 | Friday, September 26, 2008 at 12:08

 為政者はこういう「恐怖の文化cultura del miedo」をばら撒いて国民を黙らせたんでしょうね。被害者家族の最大の苦しみは、差別でも罵倒でも不寛容でもなく「無視、無関心」だったと言います。
 北朝鮮拉致家族の方々も同じことを言ってましたね。 

 “No hay cuerpo, no hay crimen” については述べました。無視・無関心の重要セリフは、認知症らしきララ伯母さんの「見ないようにすれば、行ってしまうよ・・・ほら、行ってしまった(“No los mires, si no los miras se van, ya se van” )」でしょう。恐怖に怯えたように、蒲団の端で目を隠すようにして言う。「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿です。子供たちにこう言い聞かせて、亡霊が通り過ぎるのを待っていた。思いっきりネタばれですけど、ネタばれしないと分からない映画です(笑)。
 見終わったあと、ララ伯母さんのセリフは重要と、まず話されてましたね。それとフアン・マヌエルが何回か口にした「何にもなかった(”No pasa nada”)」も。なかったことにして隠蔽したかったが、突然事件が起こり、壁の裂け目が露呈して、平穏な日常をかき回し始めたのですね。
 思いがけないときに突然やって来るんですよ、悪いことは。

 ティーチインのとき、「ベロニカのレスビアンの姪は、恥ずべき存在、社会から隠さねばならぬ存在として登場させた」という解説がありました。
 そうでしょうね。カンディタを演じたイネス・エフロンは、昨年のラテンビートで話題になったルシア・プエンソの『XXY』で、15歳の少女アレックスになった女優です。

 道理でどこかで見たことのある女優だと思ってました。カンディタは伯母さんとしてではなく、女性として、ベロニカを愛しているように思えましたが。
 同じ感想です。ここでは触れませんが、『沼地という名の町』のテーマと重なるように思います。沼地というのは、地形的の意味と、社会的、精神的な意味を含ませてある。ドロドロして一度足を踏み入れたら、ずるずると引き込まれて、どんなに足掻いても抜け出せない世界です。
ベロニカ、ララ伯母さん、カンディタ、母親のホセフィーナ、この4人が重要、だからと言って、フェミニズム映画ではない。リアリズム、ファンタジー、アレゴリーが同時に存在していて、ミステリー、スリラーの部分もあり、カオスというより不思議な味のするカクテル、まさにマルテル・ワールドということでしょう。

 頭のない「女」は、ベロニカだけを指すのでなく、サルタの特異な気質をもつ社会、あるいはアルゼンチンの、あの時代の中産階級がもっていた気質全体を指すということですね。(ティータイム)

Posted by: アリ・ババ39 | Friday, September 26, 2008 at 14:50

 ララ伯母さんの家には誰が誰だか分からないファンタスマがうようよ浮遊している。親戚の人、貧しい使用人、人種も入り乱れて行ったり来たり、まさにサルタの中産階級の縮図です。表面的にはドラマティックではないが、背後では何かが蠢いていて、静止していない。カンディタは肝炎のため外部との接触を禁じられ、家に閉じ込められている。しかし本当の《病気》は同性愛、肝炎はそのメタフォラでしかない。世間に知られては困るのね。
 いまや同性愛はビョーキじゃない、両方好きというバイセクシュアルも・・・
 そう、両性愛者は、単に性に関して許容範囲が広いだけの話です。ビョーキでなければ《治療》は必要ないということね。

 ベロニカとフアン・マヌエルは、従兄妹同士だがすでに男女の関係をもっている。知ってるのは二人と観客だけ。ベロニカの娘が久しぶりに帰って来て、母親の髪色の変化に気が付き「似合っているわ」と言う。夫はここで初めて妻の髪の毛が黒いのに驚く。
 よく気が付きましたね。とっくにこの夫婦は壊れている。冒頭で朝帰りしたマルコスが「大雨のせいで……」とくどくど言い訳する。ベロニカも従兄と不倫していたし、轢き逃げしたかもしれない恐怖で、そんな瑣末なことなどどうでもいい。

 メタファーが散りばめられ、伏線が張り巡らされている?
 そうね、他にもベロニカが花壇の手入れをしているシーン、使用人が土を掘ると白い陶器の破片が見つかる。確信ありませんが、これは行方不明者の遺骨のメタフォラ、当時は畑や山林の藪、溝渠、砂浜などから、打ち捨てられた犠牲者の遺骨がごろごろ発掘されたんです。なにしろ3万人ですから。

 道路脇の藪にみんなで死体を捜しに行く、橋下での子供の捜索シーンもちゃんと理由があるんだ。
 多分ね。それにベロニカの職業、歯科医でしょ。犠牲者の身元同定に歯科医は重要だった。いまでも大事故の場合、爆弾事故など焼け焦げて身元が家族にも判別できないと、歯型・治療履歴が決め手になる。歯科医や、forense という法医学者の活躍で家族のもとに戻ることができた。首を傾げているけど、これはコジツケかな。

 いろいろ自由な解釈があってもいいということですかね。この映画を見ていて、フアン・アントニオ・バルデムの『恐怖の逢びき』を思い浮かべたという話、まだでしたよ。

Posted by: アリ・ババ39 | Saturday, September 27, 2008 at 11:05

(割り込んでしまうかもしれませんが)
アリ・ババ39さんのこんなコメントを読ませていただけて、感激です。いつもありがとうございます。

私は日ごろ(ブログでもなんでも)「~させていただく」という言い回しを用いません。頭の悪い政治家が形だけで使いだした安直なフレーズ、と思っているので。‘絶対に’と言っていいほど、使わないです。

しかし、これは。
アリ・ババさんのコメントは「読ませていただく」です。ありがたいです。だって、こんなラッキーなこと無いでしょう。個人ブログでここまでおもしろいコメントをいただけるなんて。「恵まれてる」んだな、私は。

……ぜ…ひ…他の作品についてもガシガシとコメントください。おねがいいたします。

Posted by: Reine | Saturday, September 27, 2008 at 11:26

フアン・アントニオ・バルデムの『恐怖の逢びき』

 この監督は、目下人気抜群のハビエル・バルデムの伯父さん、スペイン映画界大御所のスリーB(ブニュエル、ベルランガ、バルデム)の一人。原題は“Muerte de un ciclista”(1955)(自転車乗りの死)、日本では翌年公開されたが、まだコドモだったから知らない。
1983年10月に開催された「スペイン映画の史的展望1951~77」で再上映された(この映画祭の23本のライン・アップを見ると背中がゾクゾクしてくる)。どうして恐怖の逢びきかというと、密通帰りの男女が、帰りを急ぐため運転を誤って自転車に乗った男を轢いてしまう。すぐ病院に連れていけば助かったかもしれない。しかし二人の関係が世間に知られるのを恐れて男を見殺しにする。二人は当時の富裕な特権階級に属しているのね。持てるものを失いたくない一心で、「殺人」はなかったことに、しかし、やがて男がベロニカ状態になる……女は特権を手放したくない。そうして第2の殺人が起こり、女も事故死する。

 テーマは違いますね。腐敗した特権階級を告発した映画と取れますが。
 そう、フランコの時代ですからね。検閲をかいくぐる必要がある。でも映画の冒頭シーンとか、心の葛藤とか似てる。当然モノクロだから印象もね。

 ミケランジェロ・アントニオーニの『赤い砂漠』(伊・仏合作、1964)のほうが近い感じがするけど。
 モノクロからカラーに移行する時代の作品、ヒロインを演じたモニカ・ヴィッティの神々しいばかりの美しさが忘れられませんね。交通事故を起こした後、精神のバランスを失って他者との接点が取れなくなる。テーマは孤独感というより孤立感かな。意思疎通による孤独は、みんなと一緒にいるときのほうが、家族とか親しい友達とかね、ことさら強く感じる。老人の孤独と同じだね。
 ベロニカの孤独と言ってほしいよ。

 ベロニカを演じたマリア・オネットが、ラテンビートの主演女優賞をもらったの?
 『化身』のシルビア・ペレスを推しますけど。
 勇気いる役だけど、等身大の役を演じたわけで、難しいとは言えない。ファン投票で決まったとは思えないけど、オネットが妥当。舞台女優で映画は初めてとか、映画を酷評する人も彼女は褒めてる。

 サルタ三部作の〆ということですが、『沼地という名の町La Ciénaga)』に回帰したと考えていいんですか。
 私の感じでは、ストーリーが円環のように閉じられたかなと思う。結局、日常に戻っていく。マルテルは「誰かを何かを罰したり正さなければならない」とは言ってない。アルゼンチンには、かつてこういうことがあった、みんな《記憶喪失》になっても《あったことはなかったことにならない》と言ってる。sin cabeza, sin mirar, sin huellas, sin libertad....et cetera

 宗教性も・・・
 そうですね、ベロニカは敬虔なクリスチャンです。『ラ・ニーニャ・サンタ』にも繋がる。映画が面白いか面白くないか、同じ人でも年齢とか立場が変わると異なってくる。みんなを満足させる必要はないんですが、チンプンカンプンだったと言う人を前にすると、手放しで拍手喝采とはいきません。結局、映画とは何かという原点を模索することになるんです。

Posted by: アリ・ババ39 | Saturday, September 27, 2008 at 16:59

はじめまして、『ぷらねた ~未公開映画を観るブログ~』というブログの管理人inaと申しますm(_ _ )m
当ブログでも今回『頭のない女』の記事をアップしたのですが、その際にReineさんの記事を参考にさせていただきました。
記事中にこちらの記事にリンクさせていただいているので、もし問題があればコメント等をしていただけると助かります。
また本作と前作『ラ・ニーニャ・サンタ』についての監督のインタビューもアップしましたので、よろしければご一読ください。突然失礼しました。

Posted by: ina | Saturday, July 30, 2011 at 20:32

inaさん、はじめまして。
お知らせくださいましてありがとうございました。問題などはありません。(そもそも、拙ブログのこの記事は、ほとんどアリ・ババ39さんの解説で成り立っていて、私自身は「わかんなかった。q( ゚д゚)pブーブーブー」と言っているだけのようなものですし)(私もこの作品は中盤なんだか朦朧としていたかもしれません)

貴ブログを拝読しました。
とてもわかりやすくそして読みやすく、詳しく解説していながら決して横着なネタバレなどはしていない文章構成で、楽しく読ませていただきました。ありがとうございます。

『ラ・ニーニャ・サンタ』のインタビュー記事、作品をできるだけ早く鑑賞しまして、読みにお邪魔いたします。

この監督、私は苦手なのだと思っています。これからもいろいろとinaさんのサイトで勉強します。よろしくお願いします。

Posted by: Reine | Saturday, July 30, 2011 at 20:43

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