El abrazo partido / 僕と未来とブエノスアイレス [アルゼンチン映画]
セルバンテス文化センターのイベント、「アルゼンチン映画週間 6/3(火)~7(土) (※全作日本語字幕付き)」の初日に上映されるので今日までに書き上げたかったのだが、体調悪く時間もとれず途中までしか済んでいない。もう1年前からチマチマ書いているというのに、どうも進まない。
なぜだ。面白いし、好きなのに。
今日は途中まで書いておいて、続きはまたいつか。今年中には加筆します。
あらすじ(のあらすじ):
ブエノスアイレスのユダヤ人街。アリエルの暮らしはそこにある。アリエルは建築の勉強を中途で放り出し、今は母の店を手伝っている。ということに一応はなっている。
商店街の一隅に母のランジェリーショップがある。父はイスラエルに行っている。時々金を送ってよこすとは言え母にこの店を残して出て行ったきりの父のことなど、アリエルはほとんど覚えていない。
両親は時々電話でしゃべっているようだが、アリエルはその会話を聞いたことはない。
彼の目下の最大の関心事は、一家のルーツであるポーランドの国籍を取得することである。
「国籍が取れてヨーロッパに来たらちょっと足をのばしてキブツに遊びにいらっしゃいってお父さんが言ってたわよ」と、父との電話を終えた母がさらりと言う。
「お母さん。俺は今すごく腹が立ったよ。お母さんよく平気でいられるね。生まれたばかりの赤ん坊をお母さん一人に任せてそれっきりの男が、遊びに来いだって? よく言うよ。アンタが来いって話だよ」
・El Abrazo Partido@IMDb
直訳: 引き裂かれた抱擁
英題: Lost Embrace
・僕と未来とブエノスアイレス 日本公式(※音量注意)
・僕と未来とブエノスアイレス@goo
・僕と未来とブエノスアイレス@映画生活
・僕と未来とブエノスアイレス@ぽすれん
・僕と未来とブエノスアイレス@CinemaCafe
・僕と未来とブエノスアイレス@ウーマンエキサイト
監督: Daniel Burman ダニエル・ブルマン
脚本: Marcelo Birmajer Daniel Burman
出演:
Daniel Hendler ダニエル・エンドレル ... Ariel Makaroff アリエル・マカロフ
Adriana Aizemberg ... Sonia Makaroff ソニア (アリエルの母)
Jorge D'Elía ... Elías Makaroff エリアス (アリエルの父)
Sergio Boris ... Joseph Makaroff ジョセフ (アリエルの兄)
Rosita Londner ... Abuela de Ariel (アリエルの母方の祖母)
Diego Korol ... Mitelman ミッテルマン (商店街の友達)
Silvina Bosco ... Rita リタ (商店街のネットショップの女)
Isaac Fajm ... Osvaldo オスバルド (母の店のお向かいさん; 文具店)
Melina Petriella ... Estela (幼馴染で元カノ)
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Comments
アルゼンチンのユダヤ人コミュニティについては以前『バレンティン』のコメント欄にメモしておきました。
※あの時は「いつか『ぼくみら』について書く時に詳しく調べてちゃんと書こう。今はメモだけ」って思っていたのに、今日こうして『ぼくみら』から『バレンティン』を参照するように送るとは…。なんという手抜き!
Posted by: Reine | Sunday, June 01, 2008 11:04
だいぶ時間経っちゃったので細部が思い出せてないかもしれないのだけども、この映画、お薦めします。私は好きなのね、こういうの。親子もの・父性もの。しかもカラッとフッと笑わせる展開。
誰と観ても気まずくなることのなさそうな作品。
余談ですが。
『25 Watts』におけるダニエル・エンドレルは私の好みのタイプではなかったんだけど、この作品の彼はすんごくセクシー。セクシーな息子。そこにいるだけでセクシー。母親の、要領を得ない話をじれた様子で聴いている、ただそれだけでセクスィー。'`ァ,、ァ(*´Д`*)'`ァ,、ァ
これはたまらない。
私の好きなタイプってこんなだったかなあ…?
これはいったいどうしたことか。
しっかし、このダニエル・エンドレルは(・∀・)イイ!!
Posted by: Reine | Monday, June 16, 2008 23:36
語句メモ
(こういう作品は語句メモなどに気を取られながら観るのではなくて、きちんと観るために観たかった):
・negocio: 6. m. Local en que se negocia o comercia.
・「Joseph es parte de la galería,
por mas que no tenga local.」
→ ・por más que: 2. [locución conjuntiva] aunque.
・no más: わずか,単に,…だけ
・de vuelta: [Perú, Río de la Plata] Otra vez; de nuevo.
・al pedo: [Río de la Plata] En vano. Inútil.
・corpiño:.2. m. Arg. y Ur. sostén (= prenda interior femenina)
・bombacha: 2. f. Arg. y Ur. braga (= prenda interior).
・bancarse: 2. tr. coloq. Arg. y Ur. Soportar, aguantar a alguien o algo. A ese pesado no lo banca nadie. U. t. c. prnl.
例) No se banca las críticas.
・partida:
18. f. Registro o asiento de bautismo, confirmación, matrimonio o entierro, que se escribe en los libros de las parroquias o del registro civil.
19. f. Copia certificada de alguno de estos registros o asientos.
・bronca: 9. f. Am. Enojo, enfado, rabia.
・pija: 5. f. malson. pijo (= miembro viril).
・galpón: 3. m. Am. Mer. y Hond. Cobertizo grande con paredes o sin ellas.
・código del comercio: 商法
・mina: 11. f. Arg., Bol. y Ur. mujer.
・un carajo: 1. loc. adv. coloq. nada (= ninguna cosa).
例) No entiendes un carajo.
・lustro: 1. m. Período de cinco años.
→ ・decenio: 1. m. Período de diez años.
・quilombo: 2. m. vulg. Arg., Bol., Hond., Par. y Ur. Lío, barullo, gresca, desorden.
・mucamo, ma: 1. m. y f. Arg., Bol., Chile, Cuba, Par. y Ur. criado (= persona empleada en el servicio doméstico)
・yanqui: 3. adj. estadounidense.
・al pedo: [Río de la Plata] En vano. Inútil.
・colorado: De pelo rojizo. Pelirrojo.
・llorar alguien a lágrima viva: 1. fr. Llorar con intensidad.
・aire: 4. m. Parecido, semejanza, especialmente de las personas. Aire de familia.
例) Darle o darse alguien un aire a otro.
5. m. Apariencia, aspecto o estilo de alguien o de algo.
例) Me impresionó su aire de tristeza.
例) La vida social adquirió un aire nuevo.
・chiquilín, na (Del dim. de chico): 1. m. y f. Niño pequeño.
Posted by: Reine | Monday, June 16, 2008 23:42
(1) 「Mitelman quiere parecer una agencia de viajes, cuando todos sabemos que tiene una financiera.」
→ ・cuando: [conjunción concesiva] これかな???
1) [Uso/registro: restringido]. En contextos de irrealidad equivale a aun en el caso de que, aunque o aun cuando:
例) No faltaría a la verdad cuando le fuera en ello la vida.
2) Introduce una proposición no hipotética. Marca el contraste entre un hecho negativo referente a otra persona y lo que a ella le resultaría esperable.
[Observaciones]: La proposición que cuando introduce suele ir encabezada por expresiones como en realidad o la realidad es que:
例) Se cree un genio cuando, en realidad, es un vulgar empollón.
(2) 「Mitelman vendría a ser como una celestina del
dinero. ミッテルマンはさしづめ‘金の仲人’だ」
→ ・venir a + 不定詞 だろか
(3) 「no aparece, no aparece, no aparece, lo dan por muerto.」
→ ・dar por + 過去分詞 人々は彼のことを死んだものとみなす
Posted by: Reine | Monday, June 16, 2008 23:51
(4)
・「me acuerdo como si fuera hoy」
・「(ここを出て行くと決めたらなんだか全てが今までとは違って見えてきた…) Es como si ya no perteneciera a esta galería. Es como si todo fuera un recuerdo.
→ ・como si + 接続法:
(1) 『中級スペイン文法』より:
→ ・como si + 接続法過去:
主節の表す時と同時(未完了的)の場合に用いられる. 主節の時制には現在形も過去形も使うことができる
例) Es hipócrita, porque habla como si no supiera nada de esto. 彼は偽善者だ. なぜならこの事を何も知らないかのように話しているからだ.
例) En aquel entonces me trataban como si fuera hija suya. 当時あの人たちは私をまるで自分の娘のように世話してくれた.
→ ・como si + 接続法過去完了:
主節の表す時よりも以前(完了的)の場合に用いられる. 主節の時制には現在形も過去形も使うことができる
例) Se enfada [enfadó] conmigo como si lo hubiera hecho yo. まるで私がそれをしたみたいに,彼は腹を立てている/立てた.
(2) 『Gramatica comunicativa del Espanol』より:
Para expresar un sensación con respecto a una situación determinada en la que se produce la comunicación o de la que se está hablando, se usa con frecuencia:
como que
como si + imperfecto de subjuntivo
例) Está rarísimo ... No entiendo lo que le pasa ... Como si estuviera enfadado por algo ....
※El uso de "COMO QUE" en estos casos es propio del español americano.
(3) 『Curso de Perfeccionamiento』より:
SIEMPRE van seguidas de IMPERFECTO/PLUSCUAMPERFECTO de SUBJUNTIVO
1. Ni que
¡Qué aires te das! Ni que fueras un rey!
Vaya cara que tienes. ¡Ni que te hubieran ofendido!
2. Como si, igual que si
例) Es como si nunca hubieras visto algo así.
例) Actúa igual que si estuviera loco.
(4) アカデミアの説明
・「si」のページ:
1.6. Se usa tras el adverbio COMO o la conjunción QUE, para expresar comparaciones:
例) Se vistió como si fuese a ir a una fiesta.
例) Me hizo más ilusión que si me hubiera tocado la lotería.
・「como」のページ:
g) Se antepone a la conjunción condicional SI para formar construcciones en las que se establece una comparación irreal o supuesta:
例) Habló como si todos le entendiéramos.
※En ocasiones, el constituyente subordinado se simplifica en secuencias del tipo como si tal cosa, como si nada, como si no.
Posted by: Reine | Monday, June 16, 2008 23:54
・母が仕事の合間に切り分けて食べているケーキは、「Leikaj (Torta de Miel)」というものらしい。蜂蜜ケーキ? www.deliciasnorma.com.ar/judia.html
・Swiadectwo Urodzin: 「urodzin」がbirthで、「Swiadectwo」がcertificateだね?
・ケトゥバー
・ゲット@wikipedia
・最後の方のシーンでミッテルマンが読んでいる新聞はこれだろう
↓
http://www.clarin.com/diario/2003/04/16/i-02701.htm
『Diez países firmarán hoy su integración a la Unión Europea』
「El bloque pasará a estar formado por 25 naciones. Y representará un mercado de 450 millones de consumidores. La incorporación de los nuevos socios se concretará en mayo de 2004.」
(2003 年4月 16 日: アテネで中・東欧 10 カ国の EU 加盟条約が調印された)
Posted by: Reine | Monday, June 16, 2008 23:58
「Sos lo único que me importa.」
↑
『Martin (Hache)』でもまったくおんなじセリフを父親が息子に向けていた。
※最後の方のシーン:
いろんな人を失って独りになってしまい、やっと息子のアチェに対峙しようとするマルティン。泥酔しているマルティンがアチェに打ち明ける―――涙ながらに打ち明ける―――シーン:
「La única razón que yo tengo para seguir viviendo ... no te puse en la lista ... pero sos lo único que me importa, lo que más quiero... lo único que tengo. Te quiero mucho, pibe. 私が生き続けているたった一つの理由はといえば、お前に渡したあの“大事なものリスト”には書かなかったけど……お前だけが大切なんだ。お前のことが何よりも愛しい。もうお前だけなんだ。大事なんだよ」
Posted by: Reine | Tuesday, June 17, 2008 00:02
アメリカ盤のね、あのジャケ写は無いだろう、いくらなんでも。(※amazonの商品小窓の3つ並べたうちの一番右の)
なんで、幼馴染のエステラとのシーンなんかをわざわざ切り取ってんの? なんなんだろう。これじゃテーマの矮小化だと思うんだけど。
Posted by: Reine | Thursday, June 19, 2008 10:02
この監督については書きたいことが沢山あるような気がするが、どうも纏まらない。そうこうしているうちに、ブルマン長編第7作”El nido vacio”が、4月下旬にブエノスアイレスで公開されるや、興行成績ナンバー1というニュースが飛び込んできた。これもすでに2週間前の話。オスカル・マルティネスとセシリア・ロスが主人公というのもヒットに一役買ってるのかもしれない。どうやら自分と同世代の登場人物から抜け出して、新境地を模索したくなったのだろう。マンネリ化を避けるためにも懸命なこと!!
前置きは終わりにして、この映画を観る前の知識は、アリエル三部作の2番目、宣伝文から判断して1番目の『エスペランド・アル・メシアス』とは、だいぶムードが違うようだ、アリエル坊やも少しは成長してるかな、それにしてもEl abrazo partidoが、どうして『僕と未来と・・・』になっちゃうの、という程度。
第1作は2000・東京国際映画祭で上映され、監督交えてのティーチインもあった。内容は全く忘れてしまったが、日本語英語スペイン語入り乱れての混乱ぶりだけが記憶にある。たしかそのときの総合司会は金谷氏だったのではないか?
私はタイトルに拘るタイプ。タイトルは映画の顔みたいなものだからだ。この邦題もどうもなあ。コメディなんだから「引き裂かれた抱擁」じゃ商売にならないし、ブエノスアイレス、タンゴ、マラドーナなら知ってるが、アルゼンチンっていったら南米のどこら辺?という日本の一般観客にアッピールするには、と頭を抱えたことは想像に難くない。
そこで英語版はどうか。Lost embraceである。イタリア版も同じ意味のL'abbraccio perdutoで、「失われた、消え去った、迷った」となる。フランス版は苦慮のすえか父親のエリアスの名前をとって「エリアスの息子」、ブラジル版はスペイン語と同じpartidoで問題ないから迷う必要なし。監督のもう一つの国籍があるポーランドとトルコで公開されたているが、両言語ともチンプンカンだから打つ手なしである。
私がしっくりこないのは、ブルマンがどうしてpartidoを使ったかなのだ。いま仮に小学館の中辞典(第2版)を引用すると「分けられた、分かれた、割れた、2分した、気前のよい」が基本である。もとになったpartirにも、英語・イタリア語のような意味はないようである。
ちょっとオリジナル版のジャケ写を見てみよう。父と息子がおずおずと互いに肩を組んでいる後姿だ。ふつう抱擁というのは両手で抱きあうことをいうのじゃなかろうか。日本のチラシは肝心のところがちょん切られているから抱擁しているかどうか分らない。重要じゃないというわけか。こここそ重要なんでーす。
父親が登場するまで右手を失っていることは観客にはわからない。このシーンで「あっ」と思いましたね。両手で抱擁できない、半分だけの抱擁、つまり半分だけの仲直り、半分だけの和解なんだと。伊達に片手にしたのではないのだと、だからpartidoなんだと。「はんぶんこの抱擁」なんじゃなかろうか。
監督に直接聞けば難なく氷解することですけどね。もし公開時に発売されたカタログをお持ちの方がいらっしゃるなら、何か書いてないかしら。あったら教えてください。
タイトルだけ小休止します。
Posted by: アリ・ババ39 | Friday, June 27, 2008 15:40
続き。一番気に入ったのは、フランス版。父親のエリアスは出番こそ少ないが、そもそもアリエルのモラトリアムの一因は、父の失踪にある。アルモドバルの『ボルベール』の父親と同じで、こちらは一度も顔を出さないがべったり張り付いている。独楽の心棒みたいなもので、いないと映画は回転しない。
ジャケ写に話を戻すと、英語版のアリエルとエステラも悪くない。二人の共通項は、この二人だけが同じ役柄を同じ俳優が演じているということだ。1作目もメリナ・ペトリエージャがエステルに扮した。元カノにフラレタこともガレリア脱出の推進力になっていて重要。もしかしたら、第三部の"Derecho de familia"2006にも出てるのかと当たりを付けたが外れた。三部でアリエルはついに結婚するのだが別人でした。
そろそろ本題に。アリエルは等身大の監督自身と考えてもいいでしょうね。父が妻子を残して出かけた戦争は、第4次中東戦争、ヨム・キプール戦争のことである。1973年10月6日から23日まで、あっという間に終結した戦争である。そして舞台は、2002から2003あたりです。つまり、アリエルは30歳にもなってる勘定になる!(日本の解説に20歳というのがあったが、ワカルね、とても30男には見えないもん)
まずシナリオに引っ掛かる。大人になりたくない症候群は、先進国の流行病だからといって、アリエルのモラトリアムは長すぎる。だって戦争は30年前に終わってしまっているのに帰ってこないのは、ほかに原因があると考えません? グアムの横井庄一さんじゃあるまいし。30にもなれば、ふつう考えるんじゃないかしら。コメディでも一見まじめを装っているのでね、不満です。
ガレリアというミクロの世界から脱出したくて、ポーランドの国籍取りに奔走するが、一たび父親失踪のもう一つの原因が母親の不倫と分かると、結局ガレリアからも出ないんですよね。あれっ、ポーランドに行くんだった?
この映画、いろんな賞貰ってるけど、特にベルリンで受賞したのが、腑に落ちない。
また、ベターじゃないけど小休止いたします。
Posted by: アリ・ババ39 | Saturday, June 28, 2008 00:31
アリ・ババ39さん
いつも本当にありがとうございます。いつも、じっくり読んでしまいます。うなずいたりしながら。こないだこの「抱擁」についてアリ・ババ39さんからお聞きしているうち、駅で軽く20分は立ち話してしまいましたね。
やはりアリ・ババ39さんに書いていただかないと。えーっと、アリ・ババさんもおわかりかと思いますが、映画の解釈ができないから「語学」方向に逃げているというのがこのReino de Reineブログなので、えーっと、あとはですね、残り120作品???くらいありますので、アリ・ババさんそちらもどうぞよろしくお願いします。
(以下、今回のアリ・ババ39さんのコメントのデータ補足)
↓↓↓↓
・(音注意) El Nido Vacio 公式
・El Nido Vacio@IMDb
・『El Nido Vacío』のtrailer
http://www.youtube.com/watch?v=8tzdn59Rh34
・2000年東京国際映画祭のラインアップ
『Waiting for the Messiah』
・Derecho de Familia@IMDb
(これ、たぶんこないだの授業でちょびっと観ました)
Posted by: Reine | Saturday, June 28, 2008 09:43
コメントのデータ補足ありがとう。さすがに早い。こういう敏速さが私には欠けています。覗いてみましたが、面白そうな予感がします。
さて、核心部分にぜんぜん迫っていないので落ち着きませんが、必ず後ほど。ただ El Nido Vacio が、9月18日から27日まで開催される第56回サンセバスチアン映画祭の公式作品に選ばれました。スペインの作品では、今年のゴヤ監督・作品両賞をとったハイメ・ロサーレスの新作 Tiro en la cabeza (Tiro en la cabeza@IMDb)が入っています。だいぶ先の話ですが。
Posted by: アリ・ババ39 | Sunday, June 29, 2008 10:36
頭を整理するために、ブルマンの経歴を簡単に記してみる。1973年8月29日、ブエノスアイレス生まれ。アルゼンチン、ポーランドの2つの国籍を持つ。割礼、ユダヤ教で13歳の男子が行う成人式バル・ミツバーを体験し、「トーラー」という「モーセの五書」つまり旧約聖書の最初の5巻(創世記から申命記まで)を読んでいる、いわば正統派の「ユダヤ人」である。ユダヤ人にカッコを付けたのには理由がある。何故かというとユダヤ人は、そもそもナニ人? ユダヤという国家があるわけでないから、国民国家の構成員ではない。イスラエル人は存在する。ユダヤ教徒でないユダヤ人もいるから宗教共同体でもない、もちろん人種でもない。
ここは映画のブログだから深入りしたくないが、ブルマンがこの三部作で執拗にこだわっているのが、ブエノスアイレスに住むユダヤ系アルゼンチン人だからなんです。一応世界にはユダヤ人と非ユダヤ人がいて、国語辞典ふうに「男は女じゃない人、女は男じゃない人」と同じように考えて続けます。(興味のある方は文春文庫・内田樹『私家版・ユダヤ文化論』がお勧め)
アリエルのモラトリアムには、このユダヤ系アルゼンチン人、ナチのホロコーストを逃れてきた第三世代であることが背景にある。父親がヨム・キプール戦争に行ったのも、自分がポーランドに脱出したいのも、ユダヤ人が多く住んでるオンセ地区のガレリアにいるのも「ユダヤ系」アルゼンチン人だからだ。
この映画は、日本版チラシにあるような「失くした愛、見つけた。おせっかいで温かい、ここは人情商店街」というノリなんだろうか。南米のウディ・アレンと言われているらしい(本人も名誉に思うと、大先輩に敬意を表しているが、ほんとは違和感があるかもしれない)。ユーモアのセンス、自分を登場人物に投影させているところは、そうかもしれないが、私はまず自分の運命に不安でたまらない、迷子になっているブルマンの孤独を感じてしまう。そうじゃなかったら三部作など作るかしら。
でもこれは少数意見でしょうね。しかし本人に確認してみたい。映画の見方は十人十色だから、いろいろあって当然、見る人の年齢・国籍・性別、同一人物でも健康状態でも変わる。何年かあとに見たら違う印象を受けるかもしれない。
Posted by: アリ・ババ39 | Monday, June 30, 2008 18:12
ユダヤ系アルゼンチンについては『バレンティン』のコメントにあるので省略するとして、どうして南米一になったかについて補足したい。アルゼンチンは他の中南米諸国と違って、金や銀に代表される鉱物天然資源に恵まれていなかったので、16世紀に始まった一攫千金組の移民はなかった。移民が活発になったのは、ようやく19世紀末のことで、その頃には他国が苦しんだ先住民政策の知恵を学んでいた。先住民が少なかったこともあったが、受け入れる移民の主体を欧米白人に絞った。
ユダヤ系は、スペイン系のセファルディム、ドイツ・東欧系のアシュケナジム、アジア系のミズラヒムの三系統に大別される。ブルマン家はアシュケナジムだからイディッシュ語だった。祖母が歌っていた歌がそうですね。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ロシア帝政が行ったユダヤ人弾圧、ナチのホロコーストと同じ意味のポグロムというのがあって、多くのユダヤ人が国外追放になった。その受入れ先の代表国がアルゼンチンで、国策にも合致したわけです。ウクライナ、モルドバをはじめとして、陸続と北は北海に出てアメリカ経由で、あるいはピレネーを超えてスペイン経由で移民してきたわけです。そういうわけで南米一なんです。もう歴史の話はやめましょう。
舞台となるオンセ地区というのは、5月広場の母親たちで有名な5月広場から真西約300メートルにある。ユダヤ系の住人が多い。ここも再開発が行われて映画にあるようなガレリアがあるとは思えないが、勿論そんなことは問題ではない。ブルマンのガレリアであって、現実とは異なっていても一向かまわない。ただしかなり特殊な地区でしょうね。
父性ものというと、ブログにもある『バレンティン』もそうですが、なんといってもデ・シーカの『自転車泥棒』伊・1948、ロッセリーニ『ドイツ零年』伊・1948が思い出される。どれも子役が活躍する。最近の特徴は、この映画のように成人した息子と父親との対立、葛藤、和解が増えている。タヴィアーニ兄弟の『父パードレ・パドローネ』伊・1977、『バレンティン』のコメントで、Kuka さんが「Big Fishで大泣きした」というのがありましたが、このティム・バートンの『ビッグ・フィッシュ』もまさに父性もの。河出書房から翻訳書も出てる。キリがないから列挙しないが、ブームになってる。
南米のウディ・アレンは前述したが、私はむしろ彼よりトリュフォーの『大人は判ってくれない』1959から始まって、1978年の『逃げ去る恋』で終わる「アントワーヌ・ドワネル」シリーズを思い出す。20年間で5作製作されたが、アントワーヌをジャン・ピエール・レオーが全て演じた。そう8歳のときから。ユーモアのセンス、アントワーヌはトリュフォーの分身そのものだ。ブルマンのが二人のダニエルの協同作なら、こちらも二人の協同作じゃなかろうか。
Posted by: アリ・ババ39 | Monday, June 30, 2008 23:48
ぜぇはぁぜぇはぁ。私、今とてもがんばりました。がんばってアリ・ババ39さんのコメントの固有名詞にそれぞれリンクをあれしました。
いや、冗談はさておき、アリ・ババ39さん、本当にありがとうございます。こんなにたくさんのinfoをいただいてしまってよいのだろうかと、申し訳ない気持ちにすらなります。ありがとうございます。
私、こんなことしていただくと本当に楽です。「楽」という言い方には語弊がありますが、ありがたいことです。
このようにそれぞれリンク先を探してきてくっつける手仕事は私があとで完遂しますから(※専ら、作品公式かamazonかIMDbを探してきますがよろしいかしら)、アリ・ババ39さんはどうぞガンガンと書きたいだけ書いてくださってけっこうです。
書きっぱなしでけっこうですし、たとえば「あそこを書き換えておいて」という推敲の箇所があったりしたらメールでお知らせください。何日経過していてもかまいません。(※私など自分のブログを読み返していて気になった箇所は何年前の記事だろうがあまさず微修正しています)
よろしくお願いいたします。
えーっと、じゃぁ……んーっと…お好きな作品から着手してください。ね。
Posted by: Reine | Tuesday, July 01, 2008 01:16
真夜中に面倒な作業をして頂いて本当に恐縮ですが、とても助かります。いささか躊躇しながら、ものはついでと申しますので追加いたします。
* ヴォルフガング・ベッカー「グッバイ、レーニン!」独・2003
マヌエル・ウエルガの「サルバドールの朝」で主人公を演じたダニエル・ブリュールが頑張った映画。この映画もアリエルの場合と同様、父親が<最愛の>家族を捨てて一人西側に亡命してしまうのでした。これがドタバタ劇の幕開け、母親が心臓発作を起こして昏睡状態になるのも、もとはと言えば10年前の夫の変節が遠因で、昏睡状態なのは母親ばかりでなく、旧東ドイツそのものという皮肉が込められていたのでした。衰退を余儀なくされていくガレリアは、金融破産を目前に国家存亡の危機に瀕していたアルゼンチンそのものと重なりませんか。
* フェルナンド・E・ソラナス「ラテン・アメリカ 光と影の詩」アルゼンチン・1992
* ジム・シェリダン「父の祈りを」米・1993
3度のオスカーに輝いた怪優ダニエル・デイ・ルイスの演技は忘れがたい。
* ジョゼ・ジョヴァンニ「父よ」仏・2001
監督の遺作となった。
* フォー・ジェンチイ「山の郵便配達」中国・1999
過酷な父の職業を受け継ぐことで、寡黙な父に心を開いていく青年の瑞々しさが光った。涙を拭かないと映画館から出られない。
* ブレーノ・シウヴェイラ「フランシスコの2人の息子」ブラジル・2005
Reine さんのブログにあり。歌に酔って、ハンカチ絞って、音トモに「見に行って」とメールした作品。
* ニール・ジョーダン「プルートで朝食を」英・2005
これは「母を訪ねて三千里」の映画ではなく、見つかったのは父親なのでした。
思いつくままに列挙しましたが、母性もの同様結構ありますね。
エンドレルについては、あちこちから賞を貰って書きつくされているので省きたい。
ただ一点、前にも書いたが、30歳という設定にはいささか無理があるのではないかと、これは監督に異議を申し立てたい。ソニアの夫としてではなく、アリエルの父として戻ってきた複雑な心境のエリアス、兄のジョゼフ、友人のミッテルマン、母親にホの字のマルコス、否応なく走らされるペルー人、おしなべて男性脇役陣がユニークなだけに、つい不満が口をついて出てしまう。
女優達の人物造形には舌を巻く。特に母親と祖母。母ソニア役のアイゼンベルクは、第三部にも引き続き出演している。TVで活躍している女優のようだがうまい。自分の不倫を封印して、内心は不安と後悔の念でいっぱいなのに、元気に堂々と不倫相手と同じガレリアで一家を支えている。ユダヤ伝統のケーキが手放せないのも、一種の不安心理の現れかも。オンナは弱いが「母は強し」だね。
それに輪を掛けておかしいのが元歌手のおばあちゃん、孫のアリエルがインターホンで「アリエル」と返事しているのに、「どこのアリエル?」なんて念押ししてる。しまいには歌手復帰を果たしてしまう。あのメロディーどこかで耳にしたことがある。ジャニーヌ・メーラプフェルの「La amiga」1987で、二人の女の子がイディッシュ語で歌っていた手遊び歌に似ている。
アリエルのセックス・フレンドのリタ、表向きは店員さんだが、時には店主の娘にも、時々奥さんにもなってやる。「時々」が大好きな年上女性は、アリエルのようなコドモには手に余る。
映画の作りとしては、アリエルの語りで進行するというごくシンプルなもの。ただ視点は複線になっているので退屈しない。ちょっとフラッシュバックもあるが混乱することはない。ハンディー・カメラでスピード感のある導入部分から引き入れられる。再開発が進んだオンセ地区にこんなガレリア存在するかしら、と危惧しながらも気にならなくなる。低予算でミクロの世界のささやかな人物をコミカルに、ほろ苦いメロドラマに仕立て上げている。
ガレリアと父子に「未来」を感じた観客は多いかもしれないが、すでにアルゼンチンの国家破産は始まっていたのである。ドルに対してペソの3分の1に切下げ、コラリート corralito financieroという銀行預金の引き出しの制限、生活困窮者は物々交換の原始時代に入っていくのである。だからこそ敢えて、現実とは反対の結末にしたのだと類推している。
「南米のウディ・アレン」は、マスコミが勝手につけたネーミングだが、前述したようにブルマン自身は光栄としながらも、ユーモアのセンスは違うと答えている。
Posted by: アリ・ババ39 | Sunday, July 06, 2008 12:32
アリ・ババ39さん
本当にありがとう!
じゃんじゃん書いちゃってください。
今ちょっとできないのでまたあとでinfo探しておきます。
Posted by: Reine | Sunday, July 06, 2008 13:02