Solas / ローサのぬくもり [スペイン映画]
■María
35歳。地方の村出身。今は街の物騒な地区でみじめったらしい生活。陽の差さないカビ臭いアパートに暮らす。学は無い。クソ親父が必要ないと言い放って進学させてくれなかったから。唯一父が教えてくれたものはギャンブル。仕事は清掃婦。アル中気味。誰に対しても喧嘩腰だな。(ちなみにあめくと萩尾を足して二で割ったような顔立ち)
■お母さん (Rosa)
夫が街の病院に入院することになったので、娘Mariaのところに泊まる。編み物が得意。前近代的なDV夫の身勝手にも暴力(肉体的・心的)にもずっと従ってきた。なにかにつけ誰に対してでも自分の感情を抑えて生きてきた女性かと思われる。(ちなみにハマコーに似てる)
「お母さんも12年も清掃婦してたよ」「お母さんの人生なんてお手本になんないのよ!」
■下の階の爺さん
料理が下手。妻はとうに亡くなった。身寄りは無い。La Felguera(Asturias州)の出身。今の街には友達の一人もいない。が、他人全般についてたいそうchismoso(=詮索好き)。
アキレスというお利口さんな犬を飼っている。アキレスだけが友。ひょんなことからRosaとことばを交わすようになり、次第にRosaとしゃべるのを心待ちにするようになる。なんのかのとRosaに話しかける口実を捻り出す。
Rosaと爺さんは互いに遠慮しながらではあるが心を通わせていく。
■父
妻をいたわる素振りすらないような老人。(観てる途中で、ほら、このおとこ入院中っていう設定だから、病床シーンが映るたびに「早く死んじまってくれないかなぁ」と本気で願ってた)(つまり、古い男尊女卑なタイプのDV親父が放散する悪の部分が、病床にあってもいっこうに衰えてないということですよ)
妻に人権・人格なんか見とめてないタイプ。家族みんなで働いて得た金も、そっくりギャンブルにつぎ込んだようなロクデナシ。酔っちゃぁDV。これだけ長年連れ添ってきたというのに未だに妻の浮気を疑うサマは病的。
(意識してなかったが、今メモを読み返したらやっぱり私、映画の中ほどで、『この親父死なないかなぁ』って書き留めてたわ)
■でぶ (←だって‘El Gordo’っていうアダナなんだもん)
Mariaの近所の行きつけのBarの主人。妻が出産(※だったか妊娠だったか忘れた)でまったく自分をかまってくれないのでモンモンとしてる。初めはその辺のモンモンっぷりがうかがえて生理的嫌悪感すらおぼえたけど、映画が進行する間に何段階かにわけて、「あれ? この人、ひょっとしてイイモン?」と考え直させられる。
■Juan
Mariaの男(←「恋人」なんて書く気にならない)。
「だからピルを飲めっつったじゃねぇか…略…コンドームつけてヤルのは俺ぁ嫌いなんだよ!」「おまえがdickが欲しけりゃ俺が俺のを貸してやる、俺たちの関係ってそういうことだったよな? 俺、なんにも約束したことないはずだぜ?」
(この男もぬっ殺したかったです)
・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆
マザコンで「母モノ」に弱い私には、もうたまらんです。涙腺だの琴線だのをピンポイントで攻められる。
途中もさめざめと泣いていたのだが、最後の10分はもう涙ポロッポロ。いろいろメモとりながら見てるし、何度も巻き戻すし、時にはGoogleで関連事項を何分もかけて検索したりなので、気分をブツ切りにされてたわけですが、それでももうね、最後の10分はエックエックいうすすり声が止められなかった。
っつうかラストはもうメモとっていられなかった。
見ている間は、出てくる野郎どもに殺意を抱いていたってのに、見終わった今はどうしてこんなに清清しい気分なのか。泣いてカタルシスか? じつに穏やかな気持ちで観終われるんだよなぁ。重苦しい場面の連続だったのに、誰も笑顔を見せてくれてないのに、「哀しい・やりきれない・辛い」という思いから無事に解放されてるのはどうしたことか。
そうそう。笑顔のシーンがゼロといっても過言じゃないよ、そうだよ、誰かが笑ってるシーンあったかよ? 無いよ。‘笑顔’は無い。だけど不思議なことに、「あぁ、この人いま微笑んだ(つもりな)んだな」と理解できるシーンがけっこうある。
初めはね、暗さと冷たさが正直重苦しかったですわ。主人公Maríaの行き過ぎた厭世主義があまりにも攻撃的で、見てて不愉快でね。緊張するのよ。ヒヤヒヤハラハラするから疲れる。
Mariaは誰のことも大切にしてない。だけど、そりゃそうなんだよ。Mariaに他者への思い遣りを求めるのは酷な注文だろう。周りから大切にされず自分のことすら大事にできない人間が、他人を思い遣れるわけがないんだぁね。他人を大事にするなどという麗しいことは、幸せでーすって言って生きてこられた人間が受け持てばいい(……っても、そういう人々は受け持ってくれないんだな、これが)。
踏みつけられて這いつくばってきた側のMariaが、なんだってんで他人を思い遣んなきゃいけないんだか。無理ですよ。
まぁ、そういった感じでね。殺伐とした感じで始まるんだけど、めげずに観ていくと、なんだかね、母親を大切にしたくてどうしようもなくなるっていう映画。
『a mi madre, a todas las madres.(私の母へ、そして世のお母さん方へ)』ですわ。母というひとへのオマージュ。娘が自分で自分を支えられるようになって欲しいという一念で母は娘を支え続けるのね。娘に温もりというものを取り戻させたいのですよ。ひとの心というものを。
観たらいいと思う。観てお母さんを大切にするといいと思う。(………でも、お母さんといっしょに観るのはちょっと考えもんです)
(語句メモなどはコメント欄で)
(スペイン映画)
・『Solas』
・邦題: 『ローサのぬくもり』
・Benito Zambrano監督 (ベニト・サンブラノってどこでも書いてるけど、ベニート・サンブラーノって書きたくなる)
・スペインで購入(7ユーロ)(1ユーロ=130円くらいだった)
・Solas @IMDb
・ローサのぬくもり@映画生活
・ローサのぬくもり@シネマカフェ
・ローサのぬくもり @goo映画
・ローサのぬくもり【字幕版】 [VHS]
・ローサのぬくもり【日本語吹替版】 [VHS]
監督: Benito Zambrano ベニト・サンブラノ
製作: アントニオ・P・ペレス
脚本: ベニト・サンブラノ
撮影: トテ・トレナス
出演
María Galiana マリア・ガリアナ ... Madre 母
Ana Fernández アナ・フェルナンデス ... María マリア
Carlos Álvarez-Novoa カルロス・アルバレス=ノボア ... Vecino 老人
Paco De Osca パコ・デ・オスカ ... Padre 父
Juan Fernández フアン・フェルナンデス ... Juan フアン
Miguel Alcíbar ミゲル・アルシバル ... El Gordo ‘ザ・デブ’
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Comments
(1)
Maríaがお母さんに対してtutear(=túを使って話す)しないんだよね。hablar [tratar] de usted(=ustedを使って話す)なの。母親に対する心的距離を表しているのかのぅ。心的距離を表わしましょうというMariaの意固地を表わしているのかのぅ。
それが初めのうちは随分と切なかったです。
(2)
部屋が湿気臭いのに窓を開けないMaria。窓を開けるときのお母さんの気持ちを思うと、それもまた切なかったねぇ。
余談中の余談ですが、あの部屋の感じは、『September 11』のショーン・ペン編を思い出させるものでした。
(3)
「割れ窓理論(Broken Windows Theory)」って言ったよね、ジュリアーニとかの。割れた窓を一枚放置しとくだけでも人心の荒廃ひいては地域の荒廃が加速するとかそういうことかい?
Mariaのアパートの近隣をお母さんが驚き呆れて見渡すのだけど、塀の落書き、たむろする男たち、道端に立つ女、なぜか焚き火、掘っ立て小屋、そして公衆電話は当然のように故障中……と「何翻だよ!」といった揃い方でした。
Mariaはそういう地区に暮らしているのです。
Posted by: Reine | Saturday, December 04, 2004 23:25
(4)ネタバレ
↓↓↓↓
行きつけのBarにMariaが入っていくんだけど、お母さんが入っていかない。「いっぱい男の人がいるから…」っておどおど言うの。「お母さん、ここは村とは違うのよ」ってMariaは苛立ちをあらわに。
男がたむろするような‘いかがわしい’店に女が入っていくなんてはしたないよという小言のような意味合いかと思って観てたんだが、お母さんはそういうつもりではなかったということが、先のシーンで徐々にわかってくる。
(5)
清掃婦の同僚二人がビンゴをして遊んでる。数を言っていくシーン。「じゃぁ次、じゅうなな(17)」「17、17……17といえば、17歳のときにmi primer casquete」「で、どうだったわけ?」「なーんも。ni me enteré」
17歳で初めてcasquete(=cópula=性交、交尾)をしたといい、「アッと言う間だった(=ni me enteré)(=気づきもしなかった)」と。
Posted by: Reine | Saturday, December 04, 2004 23:41
(6)
床を拭いているまさにその上を何のためらいもなしに普通に通り過ぎていかれて荒れ狂う。
あれはキレるかもな、私も。タクシーの運転手さんとかにものすごく横柄な態度で接する女とか、居酒屋で下僕に対するかの如き口調でオーダーしてる男とか、そういうの大嫌いだな、私。
(7)
なんていうかな、『女性の「オトコ運」は父親で決まる 岩月 謙司 (著)』っていうかね。
Maria見てると身につまされる。いや、なに、my父がDVとかギャンブラーとかそういうんじゃなくてよ。でもMariaに重ねちゃうところがあるな。年齢とか。宝くじ買うとか。ダメ男つかんじゃうとか。そういう姿が。その辺が真実味をもって迫ってくるわけだ。
じゃぁどうなんだ。恋愛する年頃に幸せそうな恋愛をして、彼氏がどうしたこうしたやって、結婚しました、仕事もうまく行ってますというようなスゴロクで既に‘あがって’いる女性には、Mariaが吐き出す圧迫感はどれくらいどのように伝わるのかね。上っ面しか伝わらないのではないかというイヤな予感が。
うまく言えないけども、私なんかが観た方が何倍もこの映画は理解されると思う。(←なんか妙な日本語だけど)
なんていうかな………幸せを享受してる[してきた]女に冷やかしで観てもらわれちゃうとカチンと来るっていうか。ましてや「感動した~、ぐすん」とか言われたくないっていうか。すっこんでろっていうか。
……なに言ってんだかな……。どうした、荒んじゃって>私
あれ、全然穏やかな気分じゃなくなっちゃったじゃん。さっきまでの優しい気持ちはどうした。
Posted by: Reine | Sunday, December 05, 2004 00:06
何ヶ月も経ってるのですが。
コメント欄(1)にて、娘Mariaが母に‘tutear’をしない、ustedでしゃべってると書いたところ、友人から「そうだったっけ???」と訊かれた。
「ひょっとしてAndalucia方言で活用語尾の‘s’が落ちてるから、tuで活用させずustedでしゃべっているように聞こえるのでは?」と。
「いやぁ、そうじゃないよな、たしかに3人称と確信して観ていたように思うんだが…」というのが気になっており、といってもこの10ヶ月忘れてたんだが、このたびもう一度見直してみた。
やっぱり3人称だよ。冒頭の4~5分を観る限り、母にUstedで話してる。
・「はい、このメモを失くさないで」という箇所で、「Tenga」と言ってる。
・ベッドメイクを手伝おうとする母に「Deje, deje.」と言ってる。
・ここはsu casa(あなたの家)だからとか、Usted puede qudarse(ここにいてくれていいです)とか、聞こえる。
最後のシーンに飛んでみる。母への手紙を娘Mariaが読むナレーション。ここでもずっと「Usted」とか「le」で読み上げてる。
Posted by: Reine | Monday, October 03, 2005 18:10
友人が年末年始にこの『Solas』を観たそうだ:
>娘は完全に母親に対して Usted で話してるよね。観ながらずっと気になってた。あれはあの母娘のケースに特殊なことなのか? それとも田舎だと割とあーいうこともあるのかね? と思いながら観てた。
やっぱりここは一つ誰かスペイン人に聞いてみるかなと思いセビージャの友人にメールしてみた。(※たまたまだけど彼は『Solas』のサンブラノ監督と同じテレビ会社で同じ職種だった)
彼からおもしろいレスが来た(※彼自身が『Solas』を観たことがあるかどうかは不明):
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親に対してustedでしゃべるってのは、登場人物(マリア)の性格を物語るというよりはむしろ出自を物語っているのだろう。
もう昨今のスペインではあまりみかけられないことだけど、田舎の農村なんかではあることだ。『Solas』ではマリアの両親は田舎からセビージャ郊外へやってきたという設定だったんでしょ?
昔はそういうことよくあったな。たとえば僕の父は自分の両親に対してはずっとustedだった。いっぽう母はそういうことはなかった。
このマリアの父親の独裁的な横暴な性格を表しているとも言える。子供たちにustedでしゃべるようにとしつけたのだろう、と。
まとめると子供から親に対してのustedは、古めかしくて、地方にありがちで、父親の独裁的な性格がうかがえる、のね。
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だそうだ。c⌒っ゚д゚)っφ メモメモ...
Posted by: Reine | Wednesday, January 09, 2008 20:54